2011年に映画公開された『聯合艦隊司令長官 山本五十六 ~戦後70年目の真実~』を観ました。
以前、2015年頃新潟の長岡にスーパーマーケットのリサーチに行った際、「山本五十六記念館」にも寄った事があります。その時は、幕末の長岡藩の家臣で、土方歳三らとともに幕府軍と戦った河合継之助の方に興味があり、山本五十六はふとした思い付きでした。でも、長岡のスーパーでも「五十六カレー(海軍カレー)」が売っていたり、地元で愛されている方だなと感じました。
映画では基本的に、1930年後半、山本はアメリカとの開戦になることを危惧して日独伊三国同盟に反対するシーンから始まり、しかしその反対により世論から怒りを買い、海軍次官から現場の司令官へ転属することになることになり、結局反対していた対米戦争の長官となって戦う事になってしまう、という流れで作られています。
山本五十六は、ハーバード大学に通っていたり、アメリカに対する研究は余念がなかったようです。そしてアメリカの巨大なサプライチェーンによる国力が軍事力に関係していることも実感していました。
また、航空機にもいち早く関心を向け、霞ケ浦航空隊に早い時期にみずから望んで着任しています。アメリカではリンドバーグの大西洋横断の祝賀会も出ています。その後も日本の航空機の発展に、尽力しています。
そして、軍事的な戦略だけでなく、軍政にも明るくロンドン軍縮条約と第二次ロンドン軍縮条約の会議に携わっています。
そんな山本五十六の多面性と人間の広さを実感できる映画でした。
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※以下は、参照データ
山本五十六
1884年 新潟県出身、父親が56歳の時。
「長岡市は、明治30年代石油景気で沸いた町であった。」※2
1901年広島県呉の近くにある海軍兵学校32期に入校。堀悌吉と同期の親友。
1904年日露戦争中卒業。「キリスト教に対する理解が深く、海軍兵学校時代は座右に聖書を置いていた。」※1
1905年、日露戦争の日本海海戦に参加。「この海戦において、左手の人差し指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う。」※1
「バルチック艦隊が、日本海に現れ、連合艦隊と決戦をしたことは有名である。日露戦争は満州・旅順での陸戦の勝利が、海戦によって無になってしまう状況下にあったが、薩摩出身の東郷平八郎海軍大将連合艦隊司令長官の大胆なT字戦法によって、大勝利を収めた。」「先頭が戦艦三笠、最後尾が日進である。そのため両艦に敵の命中弾が集中した。」※2
1909年アメリカに駐在
「練習艦宗谷の分隊長となり、同時に海軍大尉となった。当時の宗谷の艦長はのちに海軍大将・首相となる鈴木貫太郎大佐。」※2
1911年、「海軍大学乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり…兵器学講座担当」※1
1919年、アメリカに駐在を受命、ハーバード大学に留学した(~1921年)
語学研修がメインだったがアメリカの国力や軍備も探る目的もあった。カメラ、シェークスピア、リンカーンを読む。
また「一方では日本大使館付駐在武官の肩書を山本少佐は持っていた。…着々と国際通信会議の準備をし、駐米大使の幣原喜重郎を助けている。」※2
「(山本がアメリカから帰国して1930年まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、…本棚の半分はアメリカの歴史に関する本で、他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中に大切にとってありました。父はアメリカを知るためのあらゆる勉強をしていました」(「編集便り」『ナショナル・ジオグラフィック日本版』 1999年(平成11年)4月号)
「アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行機産業とそのサプライチェーンに強い印象を受けている。」( 海燃ゆ, p. 102; 豊田 1992, p. 25.)
「日本では専売指定されていた砂糖と塩がともにプラントで大量生産され市場で大量消費されていることをワシントンD.Cの喫茶店で身をもって知り、彼我の生産および流通の圧倒的な差に衝撃を受ける。」※1
「このアメリカ滞在時に駐米海軍武官の上田良武大佐(海軍航空開発の第一人者)より受けた指導と視察、研究の影響が、航空機に着目するきっかけになった可能性がある。」人物叢書, p. 74.
1921年、海軍大学教官になり軍政学を担当。
「軍人は作戦・戦闘指揮が花形で、軍備の充実や補給は敬遠されがちであった。しかし、世界各国の海軍の軍備は日進月歩で近代化されつつあり、日本海軍も軍備を充実しないと日本の戦争戦略が維持できないことを察知したという。」※2
1922年、海軍大学教頭に山本英輔が着任し五十六の航空機観に影響を与えた。
「ワシントン軍縮会議の随行員として、井出謙治海軍大将とアメリカの石油事情を視察している。」※2 欧州米国を視察したらしく、ロンドン滞在中に関東大震災が発生。
ワシントン海軍軍縮条約で「陸奥」が問題となり、「陸奥一隻のためにアメリカとイギリスを強くしすぎた」※1と皮肉を言ったようである。
1924年、五十六自身の希望と山本英輔大将の推薦により霞ケ浦航空隊へ転任。
「風紀は乱れ、むしろ、すさんでいたとある。まだ、日本海軍にあって、航空機は軍艦に比べ、異端であり、鼻つまみのような猛者が航空隊勤務になっていた。それに航空機の性能は幼稚で、訓練中に事故が多かった。」※2 教頭兼副長であったが、副長としての役割を重視して風紀をただした。自らも操縦したようである。
霞ケ浦神社の創設に尽力した。「戦闘などによる戦死者の直接要因とならない訓練中の事故死や病死は死後、靖国神社に祀ることがない。そこで犠牲者を祀るため山本五十六は霞ケ浦航空隊の近くに霞空神社の創設を企画した。」※2
1925年、日本初の空母「鳳翔」が完成。
駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在する。
1927年、「リンドバーグが大西洋横断飛行を成功させた際、アメリカの祝賀会にいた日本軍人は、山本海軍大佐ただ一人であるといわれている。リンドバーグの単独無着陸飛行は冒険であったが、飛行機が戦略兵器になるなど、当時の世界の人たちは考えたこともなかった。」※2
「この際にも再びアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産や流通体制を視察、研究し、この経験が後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えた。」※1
1929年、海軍少将に進級すると共にロンドン軍縮会議に次席随員として参加した。山本と山口多聞は軍縮案に強硬に反対したが、結局調印。
1934年、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表。このときも駐米大使は幣原喜重郎。「当時の海軍力はイギリス・アメリカ・日本の三国が突出して充実していた。しかし、各国がこのまま軍拡を進めれば平和的バランスが崩れるというのが、イギリスとアメリカの言い分だった。」※2 このときの五十六は日本の側の軍縮協定であったが、軍縮条約脱退することになり結局軍拡の時代に突入。
帰り際にヒトラーと会見する可能性があったが実現せず。
軍縮推進派の親友堀悌吉はロンドン軍縮条約の出張中予備役になってしまう。
条約反対派巨頭は大角海軍大将で、人事を握っていたのが南雲忠一。
※1…wikipedia「山本五十六」より
※2…『山本五十六』稲川昭雄