1972年、ダイエーが百貨店トップの三越の売上を抜き、スーパーが百貨店を追い抜くという偉業を成し遂げました。
1957年から「主婦の店」運動として「安く売るためのシステム」を実現してきたダイエーは、チェーンストアとして店舗数を増やし、食料品を始めとして雑貨やテレビなど破格の値段で提供し、消費者の絶大な支持を受けて成長してきました。
そして、その成長の裏には、読売新聞記者の渥美俊一という、アメリカで形成されていたチェーンストアによる経営方式を体系的にまとめ、日本での実現を50年スパンで実現しようという理想を描いた人物がいました。
その助けもあり、セルフサービスにおける販売方式や、多店舗展開により組織的売り上げの増大や、人口増加地区に応じた店舗展開など確たる理論をバックグラウンドに持ち実現してきたのです。
1969年にはダイエーは町田・赤羽店を皮切りに、関西から東京首都圏に進出し、スーパーの争いは日本全国を舞台にした戦いに入っていきます。
このスーパーの躍進は、百貨店を凋落させただけでなく、商店街にも大きなダメージを与えました。確かに理論的にはスーパーが普及してディスカウント方式で誰もが近場で手軽に買えるお店が出来てくれることは理想ですが、10年程で急成長してきたスーパーと言う形態で既存の形態を破壊することになり、社会的混乱を招く恐れがありました。
そこで、政府は1975年に大店法と言うスーパーなどの大規模な店舗の出店を規制して、既存の形態を保護する方針を出しました。
また、産業が発展してきたこともあり国際上の立場から、資本自由化が進められてきており、1973年あたりからアメリカのスーパーなどが日本進出してくる恐れもありました。
そのため、1972年のダイエーが三越を追い越したときには、一日も早くチェーンストアを拡大して規制や自由化と戦える大きな組織を形成する必要が出てきて、当初進めてきた安売りシステムの構築だけでは間に合わなくってきていたのです。
そこでとられてきたのが、仕入れから小売りまでの流通に携わる機関の提携(垂直統合)、またチェーンストア・スーパー同士の提携、更に百貨店とスーパーの提携、また専門店などの異種業界との提携なども進められてきました。その結果より、合理的な仕入れを行い、規模の大きなチェーンストアが多く登場し、大店法の中でも多くの地方に大規模な店舗を持てるチェーン店が存在し、多様な生活を提案できる商品の品ぞろえを実現できるようなシステムができあがってきたのです。
これは合理的で簡素でありながら多様性のある経済社会の実現に繋がっていったのですが、その変化の様は日本の色々なシステムや風土に応じての変化で、結果的に複雑に入り組んだ社会となり、外資の小売業の参入は困難になりました。
事実、名だたるアメリカの小売業は日本への参入に失敗してきました。
ただ、一つ外資が入り込む余地がありました。
それがコンビニ業界だったのです。
チェーンストアによる形成において発展する流通業界を尻目に、この新しい波に載れず取り残されて衰退していっていた零細企業である小売店が日本各地に存在していました。
日本政府は、この取り残された零細企業には、アメリカのコンビニエンスストア理論こそ救済の方法になると感じ1972年頃から啓蒙活動を始めていました。
しかし、その流れを単なる零細企業の救済だけでなく、チェーンストアのさらなる発展に繋げられると気付いたのが「イトーヨーカ堂」でした。
もっとも同じ時期頃に、セブンイレブンを経営しているサウスランド社は伊藤忠商事を通して全国売上一位のダイエーとの提携を視野に入れていたようですが、ダイエーの創業者・中内はコンビニエンスストアの可能性にこのときは反応しませんでした。
また簡素で合理化され、しかも多様化してきた社会は、家庭の家事の軽減による女性の社会進出と、社会において多様なライフスタイルを受け入れる土壌を作り出し、さまざまな時間帯に買い物をしたいと思う客層が登場していました。
この業界的必然性と社会的ニーズを見事に満たしたコンビニエンスストアを、「イトーヨーカ堂」は「セブンイレブン」として実現にすることに成功したのでした。
これが1974年。
そして1970年代前半のスーパーが百貨店に勝つ方法の変遷のピリオドとなりました。
(名前をクリックするとその場所へリンクしてます)の1970年代前半を、バイオグラフィとともに紹介します。
渥美俊一
渥美俊一の1970年代前半
1926年三重県松阪市生まれ(三島由紀夫1925年生まれ)
1945年 官立第一高等学校(旧制第一高等学校)に入学。高校・大学と共に委員会生活と学生運動に明けくれたようですが、政治的な運動と言うよりは学校の運営などに関する運動を中心的な指導をする立場としてやったという感じのようです。(※3)
1948年東京大学法学部卒業
1952年読売新聞社に入り経営技術担当記者となる。
「経済事件摘発キャンペーンを担当」(※3)
1959 初の単行本第一巻『実例による解説・もうかる商店経営』刊行
読売新聞記者として「商店のページ」を発案し、チェーンストアによる小売業・飲食業の躍進を唱えたようです。このとき、1957年に「主婦の店」運動が始まりセルフサービス・ディスカウントシステム・チェーンストアが始まり話題になっていて、渥美はその革新性を更に発展させようとした感じになります。休日は、チェーンを始めようとする企業を周って、情報共有する組織を作ることに奔走しています。(※3)
1960年、第25回商業界ゼミナール(毎年2月に箱根で開催されている商業界主催の日本最大の商業経営講習会、倉本長治主宰)の10周年記念の諸行事に新聞記者として参加。(※2)
1961年、商業界ゼミナールの専任講師として、チェーンストアを説く指導者の一人となりました。つまり、最初は商業界の考えと重なり、商業界の流れを推し進めるカタチだったのだと思います。
1962年、アメリカに渡航が可能になり、ダイエーの中内らを商業界が渡米をプッシュしてきて、アメリカのノウハウの本格的な研究が始まるようです。(※5)(※2)
渥美自身は、渡米は翌年からのようです。
しかしこの時点で、チェーンストアを進める有志企業の人(メンバー・中内功、伊藤雅俊、岡田卓也、西端行雄・岡本常男(マイカル)、大高善兵衛(ヨークベニマル)、西川俊男(ユニー)、和田満治(イズミヤ))たちと情報共有する団体・チェーンストア経営研究団体ペガサスクラブを設立し、主宰しました。
因みに、1961年から50年かけてチェーンストアを普及させるという計画を掲げていたため、基本的に30代後半(1920年後半生まれ)の経営者が中心となったようです。
この年は、林周二『流通革命』がベストセラーになったり、ピーター・ドラッガーが「中央公論」に『経済の暗黒大陸』という論文を特別寄稿したり、流通の分野に社会的にも注目が集まっていました。また渥美自身も『流通革命論』をこの年に執筆しているようです。(※4)また、中内が渡米した際はケネディがスーパーは社会主義に対する資本主義の象徴であるというような演説もしており、冷戦下における注目もあったのでしょう。
1963 商業界により渥美は初めて米国流通視察に送り出されます。
そして1972年、
渥美が掲げた「百貨店ナンバーワンの三越を追い越せ」のスローガンをダイエーによって達成されました。
「これは明らかに、ビッグ・ストアが単なる安売店ではなかったことを示すものである。理論的・科学的な仕入れ活動や出店計画、人材の養成、その他多くの成長戦略が有機的に結合されて、このような大きな成果となったのであり、ビッグ・ストアの背後では、近代的な経営システムが確立していたのである。」と述べています。※5
そしてこの年に、ビッグ・ストアづくりからチェーンストアづくりに移行する下記の著書を出しています。
『これからのチャーンストア経営』
この本では、日本においては一店舗展開の延長として多店舗展開があるのでなく、チェーンストア経営は一店舗展開とはまったく別物の経営方法がなくてはならないと述べています。そしてこれからの可能性として、①通常のチェーンが日本では主流だがアメリカではフランチャイズチェーンが盛んになっていることを揚げ、②チェーンは総合店がメインとなっているが専門店のチェーンの発達が必要であることを論じ、更に③既存の都市よりも周辺に人口増加地区が増えていき発展していくためそこに効果的なチェーンを展開することが必要ということを論じています。
「これから」とタイトルにあるように、日本においては1960年前後から渥美自身の働きが気もあって発達していき、この年にはスーパーが百貨店に勝てるようにもなってきたため、今度はそのチェーンの方向を更なる深化させていく必要があるということを論じたかったのだと思います。
※1・・・『これからのチェーンストア経営』渥美俊一
※2…『渥美俊一選集 (5)チェーン化への道』渥美俊一、商業界
※3…『チェーンストア経営の目的と現状(改訂版)』渥美俊一、実務教育出版
※4…『カリスマ』佐野真一
※5…『セブン₋イレブンの経営史』川辺信雄、有斐閣
中内功
中内功の1970年代前半
1922年大阪で生まれました。
父は小さな薬局を始めており、祖父・栄は神戸で眼科医をしていました。
1938年兵庫県立神戸高等商業学校に入学し、1942年大学受験に失敗し、日本綿花に就職しています。
1943年、応召されて綏南に駐屯。
1944年、フィリピンのルソン島リンガエン湾の守備に就き、山下奉文のゲリラ命令により生き延びました。この時、米軍がアイスクリームを食べているほど余裕がある事態を目の当たりにして物量の大切さを実感したようです。
1945年、マニラ捕虜収容所を経て、生還しています。
その後、実感のサカエ薬局で働きます。
1948年「友愛薬局」で業者を相手に闇商売をしています(このときも、仕入れ方などによって徹底的な安売り商法を行っています)。
このとき、神戸経済大学の夜間に進学しています。
1951年、次男の設立した「サカエ薬品株式会社」の「サカエ薬局」に勤務。
1957年大栄薬品工業株式会社を末弟と設立するがすぐに撤退。
本格的なセルフサービス・ディスカウント・チェーン(スーパーマーケット)の始まりともいえる「丸和フードセンター」社長吉田の要請を受けて小倉に向かい回転の援助をしたことから、「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰いました。小倉の十号ストアは、日本初のセルフサービスを実現した紀伊国屋でセルフサービスを実現させたNCRが関与して、ディスカントとチェーン化を打ち出したお店で、このフォーマットを「主婦の店」として企画していたのです。
そして、大阪市の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に「主婦の店ダイエー薬局」一号店を開店(1974年まで営業)しました。形態は今日のドラックストアのようなものでした。
1958年、神戸三宮にチェーン化第一号店(店舗としては2号店)を開店。
1960年プライベートブランド商品、「ダイエーみかん」発売。
1962年、大手商社日商の協力のもと、渡米しました。
「シカゴで開かれた国際スーパーマーケット大会に日本代表として出席した。」
更にケネディがソ連とアメリカの違いは「スーパーマーケットがあるか否か」という演説をする。「ケネディのメッセージは、東西冷戦構造の緊迫状況がピークに達しつつあるさなかになされたものだった。そこには、新主義体制が生み出したスーパーマーケットの優位性を誇示することで、ソ連の計画経済の破綻を世界中にしらしめすという狙いが、明らかに込められていた。」(※1)
そこから「ダイエーでも、シアーズ・ローバックが採用した商品や事業の多角化や事業部制組織といった経営戦略や組織を徹底してわが国で実行していった」ようです。(※2)
1964年、ダイエー・松下戦争が勃発しました(30年に渡りました)。
1965年、ダイエー・花王戦争。ダイエーは安い洗剤「スパット」を販売しました。
1967年、松下電機は公正取引員会の勧告を退けて非難を浴びました。
チェーンストア協会設立、初代会長は中内功。
「これはビッグ・ストアが大きく成長し、社会的にも広く認められるようになり、また影響力も強くなったので、関係者が業界の組織化をはかり、団結して共通の問題に対処し、いっそうの飛躍をはかろうとしたもの」だったそうです。(※2)
1968年、ダイエー小倉店オープン。
(完全資本自由化に対して)「外資に対抗できる販売力を身につけようとしたわが国のビッグ・ストアは、その基本戦略を、チェーン化の促進と店舗の大型化へと向けていった。同時に、商品の多角化を積極的に進め、衣料・食品のラインに高価な耐久消費財を追加し、総合店へと発展していた。…ダイエーの小倉店は、五階建のビルで、駐車場も完備し、電気製品、インテリアなどの耐久消費財を取り揃え、高級ムードをもつものであり、従来のダイエーがもっていたスーパーのイメージを完全に打破するものであった。」※2
更に、伊藤忠商事とも提携しています。
「こうして多数の大型店が出店するようになると、競争はいちだんと激化し、店舗の建設資金や人材開発の面で問題が生じ、その結果多くの合併や提携を引き起こすこととなった。特に戦略店舗としてのショッピング・センターには巨額の資金が必要であり、…ダイエーと伊藤忠…といった異産業資本との提携が生じた」(※2)
1969年、昨年に続き提携はあらゆる方面で進み「競争の激化にたいして、小売店同士の合併・提携も進み…ダイエーがサンコーと提携」しています。※2
また『わが安売り哲学』を出版しており、誤読も多いがマルクス主義に影響を受け、毛沢東になぞらえたような記述も多くあり、当時の政治状況を反映しており、「安売り」を革命と論じました。影響を受けていた渥美俊一の影響もあると思います。
ただ、この著作は弟との経営者争いなどあり、一時的な感情で書いた側面もあるようです。(※1)
“首都圏レインボー作戦”と称して本格的首都圏への進出として、東京・新興住宅地町田に出店しています。
「基本的には都心から30キロ、50キロ圏を今後における人口の増加地帯とみて、その地域の消費者が必要とするものをいつでも供給できる店舗を作る。虹のように半円状で広げていく。いわばレインボー作戦である。」(『わが安売り哲学』)と作戦を説明しています。
1969年40店舗から1973年101店舗を目標とし「この間、首都圏には、北千住店、赤羽店、立川店、八王子店、上大岡店、戸塚店、横浜西口店、千葉店、木更津店など、都市をまさに虹のようにしてとりかこんだ店舗群が張りついた。」展開をし、「この作戦の要諦は、出店候補地を南部方面と北部方面にきっちりと分け、南北から都心を包囲するところにあった。地上5階、地下1階、売り場面積約1万千平方メートルの町田店は、南の拠点として位置づけられた。」ようです。(※1)
さらに作戦の総指揮・打越祐は「当時は、東光(現・東急ストア)やサンコーなどが、私鉄沿線を中心に店舗展開していましたから、それをマネてもしょうがない。これからは確実にクルマ社会になると予測して首都圏の外堀を走る16号線の環状道路沿いに、50店舗くらいの土地にツバをつけました。ポイントは環状道路沿いと大型店化でした。」とコメントしています。(※1)
続いて赤羽店を出店しています。
「北の拠点として位置づけられ」「ヒンターランド(後背地)い首都圏北部の川口、蕨、浦和、大宮などの人口急増地帯をもち、すでに西友ストアー(現・西友)の地盤が固まりつつある町だった」ようです(※1)
「ダイエー赤羽店は二階建ての直営店と、別棟の専門店街からなり、売り場面積はあわせて約1万2千平方メートルという、当時としては最大級の店舗だった。」で「東西スーパー横綱同士おはじめての激突だと、マスコミが面白おかしく書きたてた。」ようです(※1)
ただ「商店街振興のため、ダイエーを誘致した」らしく「戦後派の進取の気性がダイエーを誘致した」らしいです(※1)
そして「爆発的人気を呼んだのは、15インチ型のカラーテレビだった。…シャープのカレーテレビを、半値近く…で、しかも数量に一切制限なく売りまくった。」ようでうs(※1)
1970年、大阪万博では松下は松下電器館を出し、タイムカプセルのイベントを行いました。
「三島事件の“白昼の衝撃”で日本中がひっくりかえったこの日、ダイエーが売り出したのは、5万円台のカラーテレビだった」(※1)カラーテレビ「BUBU」というブランドで破格の安さで販売し、松下と更に対立。提携先の中堅メーカー・クラウンは周りの反発を受け、ダイエーは資本提携しました。「ダイエーと提携したクラウンの「ブブ」は、センセーショナルな話題を提供したものの、実質的な成果をほとんど生まなかった。」とあり、さらに後年クラウンは不良債権化します(※1)
1971年、「ダイエーの株価が異常人気となったのは、…反松下電機に代表される企業姿勢が消費者の圧倒的支持を受けたことだった。」とこのときは安売りがダイレクトに支持されていたようです。(※1)
1972年、百貨店の三越を抜き、小売業売上高トップにまでのしあげた。
「ダイエーは…最初のハワイに出店したが、これは明らかに資本自由化時代に対処するものであった。すなわち、従来のように海外企業の進出を防ぐという立場から、むしろ逆に攻撃して外に出るという戦略へと転換したのである。」と、このときはやはり「資本自由化」に対しての海外企業対策に余念がなかったようです。※2
1973年、「ダイエーの出店速度は、大店法が施行される5年前の70年から、異常なほどのハイペースとなっている。…大店法施行一年前の73年には、オイルショックの年だったにもかかわらず、…大量出店を敢行した。」ようです。(※1)
これが結果的に長い間ダイエーのナンバーワンを作り出し、法律によって出店を規制することで後から出てくる企業が不利になるという事態が作られてしまったようです。
1974年、「オイル・ショックの後を受けた不況により、収益性が悪化したため、垂直的統合化をめざすようになった。これは国内だけでなく海外へも向けられ、…ダイエーのフィリピンでの繊維二次加工…など、海外への進出による、国際マーチャンダイジングの開発へと発展していた。」「このためビッグ・ストアは、これまで弱体であった専門店に、積極的に取り組むようになった。衣料品や靴などは、ファッション性といったマーチャンダイジング上の特別な問題を有しており、従来のビッグ・ストアのような単なる標準化の大量販売方式では、積極的な展開は困難であった。ダイエーの紳士服のロベルト…などでも、積極的に専門店を展開」とダイエーもこの頃には安売り一辺倒ではなく多方面の展開の時代に向かっていきます。※2
1975年、松下幸之助は中内を京都に招いて諭すが、中内は応じませんでした。
(前年から)「地方百貨店が凋落の兆しを示し始めた。…もともと地方百貨店は、ビッグ・ストアの経営戦略と同じ面をもっており、ビッグ・ストアと地方百貨店の結びつきが大きな流れとなってきた。1975年に入ると、ダイエーとホリタ…が業務提携をおこなった。地方百貨店にとっては、ビッグ・ストアとの結びつきによって体質の強化をはかることが目的であったが、ビッグ・ストアのほうは、1975年3月に施行された大規模小売店舗法によって大型店の地方への進出が困難になったおりから、地方百貨店のもつ大規模小売店舗は魅力があり、地方百貨店に接近していたのである。」とこのときには百貨店とスーパーが協調する時代になってきました。※2
「ダイエーもアメリカのコンソリデーデッド・フーズ社のコンビニエンス・ストア事業であるローソン・ミルク社と提携して、資本金4億円のだいえー全額出資のダイエー・ローソンを1975年4月に設立している。」とさらにセブンイレブンで作り出されたスーパーがコンビニエンス・ストア事業を展開するの流れを少し遅れて取り入れました。※2
※1・・・『カリスマ』
※2…『セブン₋イレブンの経営史』川辺信雄、有斐閣
鈴木敏文
鈴木敏文の1970年代前半
1932年長野生まれ(31年磯崎新が生まれ。)ました
1956年中央大学経済学部卒業、東京出版販売に入社しました。
1963年、伊藤雅俊に乞われ株式会社イトーヨーカ堂へ転職しました。
「31歳のとき勤めていた書籍取次会社を辞し、映像制作プロダクションを設立しようと、スポンサー探しのためのイトーヨーカ堂を訪れ、そのまま中途入社した」ようです※1
1969年日本初のコンビニエンスストア・マイショップ・チェーンがオープンしています。
コンビニエンス・ストア事業はセブンイレブンが始まりでなく、セブンイレブンの衝撃は「大手スーパーのイトーヨーカ堂のこの分野への進出は、日本におけるコンビニエンス・ストア事業の発展に従来とは異なるまったく新しい展開をもたらした。…アメリカの場合は、スーパーはコンビニエンス・ストアの発展に大きな役割を果たさなかったが、日本では大手のスーパーがこの分野をリードした。」というところにあるようです。※2
1971年 「業務開発室」設立
清水が渡米、シカゴ~ロス~サンフランシスコ~シカゴ。
後に鈴木も合流。(史実では島田健士と清水がサウスランド社を訪問したようである※2)
プロジェクトXの本では、安売り一辺倒の販売以外にも売り方があるのではという切り口での渡米。ただ、スーパーが進出するたびに、地元の商店街の反対が強いことも触れています。
サウスランド社 セブンイレブン 年中無休で7時から11時まで営業。全米で4200店展開。コンビニエンスストア業界全体が急成長しているようだ。
★サウスランド社を提携先に選んだ理由
「4000店のセブンイレブン店を効率よく経営していたサウスランド社のみが、確固たるシステムとノウハウを所有していると考え」たため※2
★サウスランド社からノウハウを導入しようとした理由
①「日本においては、何百という小売店舗をチェーン化し管理するノウハウがまだ確立されていない。」
②「ノウハウ確立のためには、長年にわたる試行錯誤と経験の蓄積が不可欠である。ところが日本の小売業界が直面している問題の深刻さと緊急度から考えると、いまから効率の高いノウハウを開発、確立するには時期的に遅すぎると考えられる。」
③「特にアメリカにおいては、この分野では長い歴史があり、すぐれたノウハウ、システムが確立していることであった。」※2
★ただ伊藤が学者に打診したところ時期尚早と答えられた根拠
コンビニエンスストアは「アメリカでは…1960年代後半から1970年代にかけて、急成長した業態であった。…発展の背景には、小型店が減少し、消費者が不便を感じている実態があった。しかし、当時の日本ではスーパーマーケットの発展は遅れていた。…中小小売商が多数存在して、消費者のニーズを満たしていたのみならず、中小小売商の数は増加していた」※2
●昭和45年度小売業売上トップ20社
1三越 2大丸 3高島屋 4ダイエー 5西友ストア 6松坂屋 7西武百貨店 8ジャスコ 9ユニー 10伊勢丹 11ニチイ 12阪急百貨店 13東急百貨店 14淵上・ユニード 15長崎屋 16そごう 17イトーヨーカ堂 (「日本経済新聞」より)
1972年テキサス州ダラス サウスランド社(コンビニ業界ナンバーワン)訪問
西ヨーロッパの進出しか考えておらず、日本へは考えていないという返答(この記述は色々な資料で見られるが出典がなく、本当かどうかは検証の余地があります)。
「中小企業庁は、1972年『コンビニエンス・ストア・マニュアル』を発行し、中小小売店の経営の近代化に、フランチャイズ・システムによるコンビニエンス・ストアの経営方式の導入を啓蒙し始めた。」とあり、このときには日本でも徐々にコンビニエンス・ストア事業は広まってきたようです。※2
1973年 伊藤忠商事(テキサス州ダラスに支店があった※2)の紹介で、鈴木と清水は本社の了承を待たずダラスへいきます。
「アメリカのスーパーでコンビニ事業に乗り出した会社はみな失敗している」と反対。
「日本には160万の小売店があります。しかし、ほとんどが家族経営で労働生産性が上がらず、売り上げも伸びないのが現状」を切り口に説得※1
ただ『カリスマ』には、ダイエー元常務の打越祐によると(70年代初頭)「ちょうど大店法の議論がにぎやかになりはじめた頃でした。これからは零細小売店の育成も考えていかなければならないと、中小企業庁からコンビニエンスストアのマニュアルをもらって勉強中でした。そんなときサウスランド社から話がきた。」とあり、中内はちっぽけな店にロイヤリティー10億円以上払う事に渋る。そして「そうこうするうちにサウスランド社はイトーヨーカ堂との交渉に入った」とのこと。ダイエーはこのとき伊藤忠と提携を結んでおり、サウスランド社としてもイトーヨーカ堂よりダイエーに興味を持つのも妥当なような気もします。
「零細小売店と共存共栄のビジネスを早急にはじめなければ、地元商店街の反対にあってスーパー自体が早晩たちゆかなくなるという危機感を強く抱いていた鈴木は、この交渉で是が非でも成功させなければならないと思った。」ともあります。(『カリスマ』)
1973サウスランド社の視察団が来日。
社長ハーバート・ハートフェルダーと副社長。
その後、ロイヤリティ0.5%と8年で1200店のノルマ(イトーヨーカ堂は現時点で30店舗)
11月新会社「ヨークセブン」を設立して運営。資本金の半分はヨーカ堂。
ただし、アメリカのノウハウは会計システム以外はあまり役には立たなかった。
1974年、オイルショックにより出店用地決定が難航。
江東区豊洲、山本茂商店…「工場と空き地が続く埋め立て地、その片隅にぽつんとその酒場は建っていた」「店の広さは24坪、アメリカンの半分」※1
冷蔵庫は狭いが故に補充できるように背面からできるタイプに改造。
①小分けの配送(問屋のケース単位の交渉)、②手作業で売れ筋商品の傾向を調べる(棚卸の人力による調査、当時は年に1、2回の棚卸で商品の売れ行きを管理)
③(集中出店)その後の出店計画は、この店舗周辺を計画。特定の地域に偏ってしまうスーパーではない方法。
1975年「専業主婦率がピークを迎えたことが挙げられます。そこから、だんだんとパートに出ていったりと、働く女性が増えていきます。その前後から、そういった女性を支える社会的なサービスが充実していくのです。」(『グルメ漫画50年史』杉村啓より)また未婚率に変化が現れるのも1975年で女性の社会進出が食の外部化と、恋愛結婚の可能性を作り出したとも言えるかもしれません。また炊飯器の普及などによって家事の軽減が社会進出を助けたとも、これによって長い時間帯に営業していて買いやすいコンビニエンス・ストア事業が必要とされる土壌ができてもいたようです。
1976年、サウスランド社の会長トンプソンが来日。
2年で100店に達していた。
※1…『コミック版 プロジェクトX ~日米逆転!コンビニを作った素人たち』
※2…『セブン₋イレブンの経営史』川辺信雄、有斐閣 ‘e6\loch\af315Posted in 21世紀ソシオ・ヒストリア日本