千葉県は「日本酪農発祥の地」と言われています。
それは、南総の「嶺岡牧」と言われる牧場で、江戸時代の徳川吉宗の命もあり、初めて外国の牛を輸入し品種改良し、その牛からとれた「牛乳」及び「バターに似た商品」を日本橋で庶民に対して販売したという事実と、その流れを汲んで日本の中で(特に乳牛で)最先端を走っていたという事実から所以とされます。
【明治期】には、外国人居留地を始め、西洋料理の普及に伴い必要とされだした牛乳や練乳の需要に応えるために、地域畜産会社が日本の中で「嶺岡牧」が率先して誕生しました。
【大正期】には、更に保存性などのニーズにも応えようと、乳児の死亡率の低下に期待されていた粉ミルクなど主要生乳企業が率先して誕生しました。
【昭和期】には、「嶺岡牧」は千葉内だけでなく、列車を使って東京へ牛乳を率先して販売したり、東京の牧場のために質の良い乳牛を供給するなど、日本一の飲用乳生産地となりました。
【平成期】には、生産そのものより、質の良い乳牛への育て方や乳食料理など地域食文化発信の起点として活躍しています。
今回はそんな「日本酪農発祥の地」である「嶺岡牧」を中心として、日本酪農史をみていこうと思います。
●「嶺岡牧」とは?~江戸時代の「嶺岡牧」~
もともとは曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』のモデルとされた南総にいた(安房)里見氏が軍馬を育成するために作った牧場でした。
しかし、江戸時代が成立し、1614年には幕府が「嶺岡牧」の領地を没収し、小金牧・佐倉牧(両方とも千葉)と共に、幕府の3つの直轄の牧の一つとされました。ただこの時点では、以前と同じように軍馬の育成が中心でした。
その後、徳川吉宗の命で1716年(~36年)に馬の改良や様式馬術の導入が始めまれました。1726年にはオランダからペルシャ産雄馬を放牧され初の外国馬が日本馬の改良に使われました。
そして1728年インド産の白牛を3頭輸入し、「白牛酪」というバターに似た製品を作りました。また、徳川吉宗が「国民の寿命を延ばしたい」と、当時最高の薬餌といわれた「醍醐(醍醐味の「醍醐」で、牛や羊の乳を精製する過程における、五段階の味の中でも、最も美味しい味とされる段階のもの。これが由来してもっとも面白い部分を「醍醐味」といいます。またカルピスは「カルシウム」と「醍醐味」を掛け合わせた言葉です)」を生産するために「嶺岡牧」を再興させた経緯もあるので、「醍醐」の生産も行ったようです。最初は将軍への献上品とされていましたが、次第に日本橋の「玉屋」で庶民にも(非常に高価でしたが)売られました。
※幕府直轄の他二つ小金牧や佐倉牧はどちらかというと軍馬の育成に留まり、育成も放牧が基本で、馬を使った武芸の稽古が中心であったようです。しかし「嶺岡牧」は、出産時には「囲い込み」を行ったり、品種改良を行ったり、酪農という言える方面に力を入れていったようです。
1793年、幕府は霞が関の野馬方役所に牛小屋を作って「嶺岡牧」から白牛10頭を取り寄せて飼い、酪製所を設けて牛酪の製造を始めました。
1796年には、400文と高価で一般にも玉屋他14カ所(全国)で販売し営業にも成功しました。
その甲斐もあり、幕末セレブ(将軍ご一門)には牛乳を飲む習慣があった例もあります。
「水戸藩の徳川斉昭(第15代将軍徳川慶喜の父・水戸藩主)は、1853年藩校・弘道館医学館の隣地に薬園と乳牛牧場を開設し、毎朝の朝食に必ず牛乳を飲み、酒のミルク割もすきであったようで、毎日約900mlの牛乳を飲んでいたそうです」(※2)
また阿部正弘が病気になった際はバターと牛乳を勧めているようです。 但し、ハリスが1854年から霜田・玉泉寺に滞在した際、ミルクを所望した際、幕府は苦労して1858年に村々で飼育されている使役の牛の牛乳を献上したとあり、神奈川の方には乳牛は育てれていなかったようです。
●明治の「嶺岡牧」
明治に入り、ハリスを始め外国人が日本に滞在する関係で牛乳のニーズが出てきたため、最初は外国人滞在の寺院などで酪農家を雇って、牛を一頭ずつ飼育していたようですが、横浜外国人居留地でオランダ商人・ジョンand エドワルド・スネル兄弟が牛乳販売店と搾乳所を開設し、駐日外国人相手に牛乳ビジネスを展開し、1860年代には前田留吉が日本人による市民向けの東京での牛乳販売店を展開することになります。
この流れは酪農が東京を中心に展開された事実と重なります。しかし、前田留吉はさほど千葉の影響を受けていませんが、その後の東京出身の酪農の流れを作っていく人物は千葉での酪農技術の下地があってこそとも言えるのです。(※2)
●前田留吉
1840年千葉県長生群白子町の農夫の生まれで、江戸や横浜方面に職探し目的で出てきた折に、体格優れた外国人をみて、それは牛乳によるものと考え、横浜で牛乳販売店経営を行っていたスネル兄弟(1861年まで横浜で牧場と牛乳の販売を行い、後に戊辰戦争では幕軍に武器を調達し河合継之助はガトリング銃を購入しています。文献によっては「蘭人ペロー氏なる者あり英人ボーロなる者を傭ふて」ともある※3)に弟子入りして、牛の飼育方法全般・搾乳方法を学びました。
1866年に独立、横浜市中区山下町(加賀町警察署付近、「太田町8丁目」とも※3)で和牛6頭を買い集め、搾乳と牛乳販売を開始しました。
1868年には軌道に乗り始めます。
その後皇居外側の雉子橋の牛舎・観農役邸の乳牛飼育責任者に抜擢されました。
この牛舎の牛は「幕府白牛数百頭を房州峰(嶺)岡の牧場に養ひ極めて不完全なる方法を以て其乳汁を搾取し之を単に幕府の所要に供し」たもので、明治政府になった際食肉にすることも唱えられたが当時民部卿・由利公正は乳牛として発展していくことを望み、人材を探していた事に端をなします。※3
またこの牛舎には羊もいたようです(1871年のアメリカの博覧会に視察にでた細川潤次郎によって※4)。
1869年に明治天皇の天覧の下、搾乳技術を披露しました。
明治天皇は1871年には勧農役邸の牛乳を毎日2度飲み始められました(同時期に明治天皇は牛肉も食べています。報道は翌年になり、天皇自体は牛と羊を同格に扱おうとしたようです。また西洋料理はもう少し早くから食べていて岩倉遣欧使節団の一人・西五辻安仲が精養軒でマナーを学んで天皇に教えています。※4)。これによって国民に牛乳に対しての拒否感情は一気に薄れていったようです。
そして、1869年政府管轄の築地にあった牛馬会社(設立に福澤門下生が関わっていたようで、福澤諭吉が宣伝文を書いている)に勤務を経て、1870年芝西久保で東京で初めての牧場・牛乳販売を開始し(ブリキ缶入り1合を4銭で売り出しました)、1873年の牛疫病で乳牛が死ぬと、渡米(カルフォルニアやサラメント〈サンフランシスコの北〉へ)して最新の酪農技術・乳牛を学びました(渡米の際にも由利公正と議しています)。
帰国後は芝銭座町12番地(浜松町1丁目・慶応義塾発祥の地も近くで、蘭学が盛んな気風がありました)で牛乳販売業を始めました。
1879年には甥の田喜代松が渡米し、乳牛(短角種牛)の輸入をしています。
『新銭座の大親分』と呼ばれるようになりました。(※2)
1873年には牛馬の伝染病が日本各地に発生したもので、「嶺岡牧」も大打撃を受け286頭だったのが24頭まで減りました。
1878年には、(株)嶺岡牧社が発足し再建しました。
※1…全体は『酪農のさと』の公開資料、ホームーページを基本的に参考にしています
※2…farmhist.com/category2/entry23.html より引用
※3…『日本牧牛家実伝』金田耕平 1886
※4…http://www2s.biglobe.ne.jp/~kotoni/index.html 参照
●安仲就文
1870年代から1880年代にかけ、明治天皇や松本良順のPRにより、牛乳の需要は増えていきました。
そのため、東京には多くの牧場が求められました。牧場の運営指導には牛乳の開祖・前田留吉もあたっています。
また、牛乳を質が良く、更に多く出す牛が求められ、外国から牛を輸入して品種改良することや、質の良い牛を育てられる技術のある千葉に牛を預け育ててもらったり、牛を借りたりして、質の良い牛の確保が求められました。
他には、牛肉の保存性が求められ、特に練乳の製造技術が求められました。千葉県の磯貝工場がいち早く質の良い練乳を生成したことで有名です。またインドから技術者も来ております。1899年には殺菌牛乳が登場し、東京では生乳は流通しなくなり、都心から少し離れた場所からの殺菌牛乳が主流になりました。
その時代を経て「嶺岡牧」の地では、現在では乳牛のイメージともなっている「ホルスタイン種」の普及と統一を全国に先んじて行っています。
その代表格とも言えるのが安仲就文です。
彼は乳牛改良を組織的に行い、
①乳を出す雌牛だけでなく、雄牛の重要さを説き、
②「泌乳量質検定」で優秀な乳牛とそうでない乳牛の淘汰
③明治政府に先立ってホルスタイン種の統一を進める
、、、の3点の主だった功績を残しました。
またアメリカ人ジェセフ・ディネレーも同じ時期南総に牧場を開き乳牛改良を行っています。