ほどほどの勝利で満足する者は、常にそこから利益を手に入れる。

―しかし、徹底的な勝利を望むものは、しばしば敗北する。(※1)

…この言葉は、イタリア・フィレンツェ・ルネサンスの芸術をパトロンとして保護し、花咲かせた一族であるメディチ家の始まりともいえる人、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの1427年の言葉になります。

 1422年からミラノ公国とフィレンツェが戦争したものの、フェレンツェにおいては戦費のための課税は貧民が虐げられるようなシステムでした。しかし、戦争が長引くにつれ課税システムを資産の高いものほど多く払うシステムに政策移行が唱えられました。 政策移行自体は移行派が有力になり可決する流れになったのですが、移行派は更に「資産の高いものへの課税は過去に遡って清算するべきだ」という要望までするようになりました。 そのため、折角政策移行案が丸く可決しそうになったにも関わらず反対派がそれならば認められないという流れになってしまいました。 そこで、上記の言葉を含む演説をしてジョヴァンニは述べ見事にフィレンツェ人の意見をまとめたのです。

 メディチ家はフィレンツェの中でもある程度名が知れた一族であったのですが、元々はフィレンツェの有力な他の一族に比べ芸術に関心はありませんでした。しかし、このジョヴァンニが商売によって資金をため、銀行業を始めて成功し、更に1421年にはフィレンツェの代表格ともなり、フィレンツェを良くするための事業の一環として芸術保護の活動もおこなったのです。
 芸術保護活動として有名なのがサン・ロレンツォ聖堂の改築工事で、サンタ・マリア・デル・フィオーレのクーポラで有名な建築家ブルネレスキが設計を担当しています。ブルネレスキとはジョヴァンニは意外と縁が深く1401年のブルネレスキが建築家として転身する事となったサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉の彫刻コンテストの審査員も担当しています。ローマやギリシャの建築様式で有名なブルネレスキの孤児養育院の建設工事も、ジョヴァンニが1421年に推進しています。

 しかし、個人的には彼の実力は政治力にあると思います。 「わたしが心から満足して死ねるのは、ほかでもなく、わたしが誰も苦しめず、いやそれどころか、できる限りすべての人を援助したことを思い出すからだ。お前たちにもそうすることを勧める。お前たちが安全に暮らすことを望むのなら、国から受け取るのは、法と人が与えてくれるものだけにしなさい。そうすれば、嫉妬や危険を身にまとうことはない。与えられていないものを受け取れば、憎まれることになる。(わたしの言うようにすれば、)他人の分まで望んで自分の分まで失い、それを失う前から絶えざる苦悩の中に生きる者よりも、お前たちは常に多くをもつことになろう。このようなやり方をしたから、わたしは、多くの敵、多くの反対意見の中にありながら、この都市でわたしの評判を単に維持したのみならず、高めたのだ。(※2)」という亡くなる少し前の言葉がジョヴァンニの政治の哲学だったのだと思います。

以下、ジョヴァンニについて論じます。

■ジョヴァンニとシスマ(大分裂)■ 

ジョヴァンニは1424年、フィレンツェのメインの聖堂とも言えるサン・ジョヴァンニ洗礼堂にヨハネス23世の墓碑を作っています。

 ヨハネス23世は、シスマと言う時期の教皇で、彼が教皇になったときは他に教皇が2人いました。もともとは1309年に教皇がローマからフランスのアヴィニョンに幽閉されるとうい事件を発端とし、それ以来ローマとアヴィニョンの2人の教皇が存在する時代になりました。その時代を収束するために、1402年ピサ公会議が開かれ、2人の教皇を廃位し、正式な教皇を定めたのですが、結局2人の教皇は廃位せず、結果的に教皇が3人になってしまいました。そして、そのピサ公会議で選ばれた教皇が急死し、それを引き継いだのがヨハネス23世になります。

 ヨハネス23世は、1402年枢機卿になるときからジョヴァンニの援助を受け、1410年に教皇に即位して際も援助を受けています。そして、ジョヴァンニをその尽力に応じて教皇庁の収支の一切を管轄していた教皇庁会計院の総財務管理者に指名しています。
 しかし、本格的に教皇が3人という事態を収束させようとコンスタンス公会議が1414年に開かれ、結果的に1415年にはヨハネス23世も含め3人の教皇は廃位を受けることになってしまいます。こうしてシスマは収束することになるのです。
 ヨハネス23世はもともと公会議の参加は乗り気でなかったものの、ジョヴァンニの説得により正式な教皇になれると思い公会議に参加しました。しかし、結果は廃位になり、更に逆に数々の罪状で拘禁までされています(もともと醜聞の多い教皇だった)。
 ジョヴァンニはそんな元ヨハネス23世を救い出し自宅に迎え、新しく教皇になったマルティヌス4世にとりなして、枢機卿・司教の地位に就かせ、さらにその死後にはサンジョヴァンニ洗礼堂に豪奢な墓碑まで多くの人を説得して作らせたのです。
 このヨハネス23世とジョヴァンニの関係は、ジョヴァンニが教皇と政治的にうまく関わり合い成功した側面を見つめると共に、シスマの収束という時代の流れとも重なるので重要な歴史を知る出来事ではないでしょうか。

■ジョヴァンニとミラノとの戦争■ 

この時期フィレンツェはミラノ公国と戦争を行っていました。

 有名なミラノ大聖堂の建設を要求したジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティはイタリア王になることを目指し1390年から1402年かけてフィレンツェと戦争をしています。 

 そして、その次男のフィリッポ・ヴィスコンティと再び1422年から戦争をすることになります。

 きっかけはミラノ公国がジェノヴァを落とすためにフィレンツェと結んでいた協定を、ジェノヴァを破った後破ったことにあります(マグラ川から東は手を出さないということを)。

 しかし、その時点ではフィレンツェも開戦派と反対派に分かれていて、ジョヴァンニも「こちらから積極的に開戦すると状況が悪くなった時周りの国から援助を求めづらくなる。そのため、相手が攻撃してきてから開戦すべきだ」というようなことを述べたが、結局積極的開戦なら自国を戦場にしないで済むなどの理由で開戦ムードに押されることになります。 ただ戦費を補うための課税制度が、貧民を虐げるようなシステムであったため、開戦しても根強い反対派がいました。

 1424年フィレンツェと山を挟んですぐのイーモラがミラノに落ち本格的に開戦。フィレンツェは開戦派の取り組み秩序を破壊すると述べるが、結局メディチ党ができて開戦の流れは止められなくなります。 しかし、1425年フィレンツェが雇っていた傭兵ニッコロ・ピッチーノがミラノ側についてしまい、フィレンツェは驚き、度重なる敗北に気落ちして、この戦争は単独で持ちこたえるのは無理だと判断して、ヴェネツィアと同盟を組みました。そして1426年にはブレシアまで奪還するほどの快進撃を続けました。

 1427年、これまでの戦争での課税方式で疲弊したため、新しい課税方式を採用する議論がフィレンツェで起こります。 カタスト法という資産が多いものほど課税を多くするというもので、有力者ほど可決を渋ったのですが、ジョヴァンニはそれを賞賛。更に、その後のひと悶着もジョヴァンニの執り成しでまとまり可決しました。

 1428年にはミラノ公国と和平条約を結びました。 和平条約はミラノとの関係にあったのではなく、フェレンツェ側は多大な出費でヴェネツィア人を強化したのではないか、ヴェネツィア側はミラノ公国を破った後雇っている傭兵の信用が薄れてきたため、和平条約を結ぶことにしたのです。  結局この戦争は「ヴェネツィア人は立場と勢力を強化したが、フィレンツェ人は貧困と分裂を拡大した。外部では和平が成立したが、内部では闘争が再開した」(※3)という結果になりました。 ただ、この戦争はジョヴァンニがフィレンツェの最高責任者になってから亡くなるまでの期間とほぼ一致していて、重要な点でジョヴァンニが関わっている出来事ではありました。

■ジョヴァンニ・ディ・ビッチの生涯■ 

1360年に生まれる。

 1381~1400年、フィレンツェで党派争いが活発になり、メディチ家も財産名誉を失っている。 1385年25歳のとき、遠縁の同族のヴィエーリ・ディ・カンビオからローマに開設した商会に社員として起用される。

 1386年、ヴィエーリと共にジョヴァンニが共同経営として「ヴィエーリ・エ・ジョヴァンニ・デ・メディチ・イン・ローマ」を設立。教皇庁を主顧客とする商会で、徴税業務や資金輸送、宮廷生活や聖職売買のための資金調達などで大きな利益を得る。

 1393年、ヴィエーリが引退し事業を受け継ぐ。

 1397年、本拠地をローマから故郷のフィレンツェへ移転。 移転の理由は、ローマでの大きな利益をヨーロッパ金融の国際的中心地であるフェレンツェで効率的に活用するためで、この都市がメディチ銀行の真の創設日ともいえる程、重要なスタート。支店を主都市(フィレンツェ・ローマ・ナポリ・ガエータ・ヴェネツィアなど)に拡大。

 1401年フィレンツ家のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉の彫刻コンテストの審査員を行う。コンテストではブルネレスキが勝ってたとも言われるが、ギベルティにブルネレスキが勝利を譲る。

 1402年、将来ヨハネス23世ともなる人物を枢機卿にすることに尽力。 息子コジモの名義で毛織物製造会社を設立。

 1410年ヨハネス23世が教皇に就任。その際、ジョヴァンニは教皇庁会計院の総財務管理者に指名される。

 1415年ヨハネス23世廃位し、更に拘禁。ジョヴァンニが救い出し、新教皇ともとりなす。

 1420年銀行業は基本的にコジモに引き継ぎ、政治活動や芸術保護活動に重点が置かれるようになる。

 1421年フィレンツェ共和国政府の最高責任者(正義の旗手)として就任。 ブルネレスキに孤児養育院の工事を依頼。更にサン・ロレンツォ聖堂の改築工事もブルネレスキに委嘱。

 1422年ミラノとの戦争が始まる。ジョヴァンニは積極的開戦には否定的だった。

 1424年ヨハネス23世の墓碑を洗礼堂へ作るように、ドナテッロとミケロッツォに委嘱。

 1427年ミラノとの戦争のための新課税方式「カタスト法」の可決にジョヴァンニ尽力。

 1428年ミラノとの戦争、和平条約が結ばれる。  サン・ロレンツォ聖堂の聖具室完成。

 1429年ジョヴァンニ死去。

サンロレンツォ聖堂、聖具室は明快な合理的比例を使ったジョヴァンニの好みと思われるデザイン
フィレンツェの簡単な位置図


※1…『フィレンツェ史(上)』マキァヴェッリ、斎藤寛海訳、2012 ※2…同上 ※3…同上 ※基本的に「ジョヴァンニとヨハネス23世の関係は『メディチ家』(森田義之・1999年)を参照。「ジョヴァンニとミラノとの戦争」は『フィレンツェ史(上)』を参照しました。

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