ダンテには3つの疑問がありました。

① フィレンツェでダンテが巻き込まれた内紛とはどのようなものだったのか?
② その内紛にボニファティウス8世はどの様に介入したのか?
③ ハイリンリヒ7世をダンテが支援するが、この時の皇帝と教皇の関係はどのようなものだったのか?
・・・という3つです。

今回は疑問①答えていきたいと思います。

ダンテは1301年内紛に敗れ、フィレンツェを去ることになり、流浪の旅に出ます。
この流浪の旅の間に名著『神曲』が書かれていきます。

ではその流浪の旅の内紛とは、どのようなものだったのでしょうか?

教皇と皇帝の対立

~フィレンツェでダンテが巻き込まれた内紛とはどのようなものだったのか?~

a.「白党」「黒党」の分類

ダンテが巻き込まれた内紛は、「教皇派」の「白党」と「黒党」の争いで、「白党」に属していたダンテは、「白党」が「黒党」に敗れたため、「白党」の幹部にいたのですが失脚して、フィレンツェの街を去らなくてはいけなくなりました。
「白党」は商人階級の人が多く、「黒党」は貴族階級の人が多くいたようで、恐らく父が金融業を営む家系だった関係もあり「白党」に属し、「白党」の幹部まで上り詰めました。

b.「教皇派」「皇帝派」の分類

「教皇派」の「白党」「黒党」で内紛していたと説明しましたが、つまり「教皇派」同士の戦いだったのです。
つまり、「教皇派」と分類するということは、「教皇派」以外の「~派」というものがあるわけで、それは「皇帝派」でした。
実は「教皇派」同士の争いが起きる少し前に、「教皇派」と「皇帝派」の争いがあり、「教皇派」が勝利し、「教皇派」がフィレンツェを統治してゆく中で争いが起こっていくのです。
そして、この「教皇派」と「皇帝派」の争いは、フィレンツェだけでなくイギリス全体を巻き込んで起こっていた出来事で、丁度この頃に多くの「教皇派」が勝利を遂げていたのです。

c.「教皇派」vs「皇帝派」の歴史

では、この「教皇派」と「皇帝派」の争いはどうして起こっていたのでしょうか?

c-ⅰ「皇帝」の誕生

「皇帝」とは、ダンテの時代は神聖ローマ帝国(現在のドイツとオーストリアなど)を統治していた王様であり、とりわけローマ「教皇」からの信任を受けていたため、王様の中でもヨーロッパを代表する(また教皇を守る)王として「皇帝」と呼ばれていました。
この「皇帝」という称号は紀元前を遡り、カエサルがローマ帝国を共和制から元首制に変えて統治し、統治したものの名を「皇帝」としたことから始まります。この時はまだキリスト教は存在しておらず「教皇」は存在しません。

c-ⅱ「皇帝」と「教皇」の結びつき

300年年代後半に、ローマ帝国の「皇帝」コンスタンティヌスが、「皇帝」の威光をより強化するため、キリスト教を帝国で認め、「皇帝」は神の使い「教皇」から信任を受けた正統性の高いものとキリスト教を利用しました(しかし、コンスタンティヌスが死に際にキリスト教を国教化することを認めさせたという話もあり、キリスト教が利用したという考えもあります)。いずれにしろ、このときから「教皇」と「皇帝」が結びつきました(「教皇」自体はキリスト教の中ではペテロの頃からいました)。

c-ⅲ 1077年カノッサの屈辱(「皇帝」と「教皇」の対立の始まり)

最初は「皇帝」の権威の裏付けとして「教皇」が存在していたので、権力は「皇帝」が持っていました。しかし、年月が経つごとに少しづつ「教皇」も力を付けてきました。
そこで「教皇」グレゴリウス7世は、「教皇」の力を付けようと考え、今まで聖職者を指名する権利は「皇帝」にあったのですが、「教皇」に権利が移るように働きかけます。この「聖職者」を選ぶ権利は「叙任権」と呼び、「叙任権」を持っているものが教会からの税を得ることができ、「叙任権」が「教皇」に移れば、財力を持つことができ、権力に繋がると考えたのです。
しかし、(勿論と言えばそうなのですが)「皇帝」ハインリヒ4世が反対します。しかし、「教皇」グレゴリウス7世は「皇帝」ハインリヒ4世をキリスト教から破門し、「叙任権」を得ようとします。ただ「皇帝」ハインリヒ4世が破門されたことを悔やんで懺悔(改悛)したため「教皇」は教義通り許さなくてはならないなど、簡単には「叙任権」を得ることができなかったのですが、「教皇」が「皇帝」を破門することができたという事実は、後に「教皇」の名声を上げて、結果的に「叙任権」を得ることができます。
ただ、この争いを端緒として「皇帝」と「教皇」は互いの権力争いを始めます。
有名な「十字軍遠征」も、このグレゴリウス7世の意志を引き継いで、「教皇」の権威を高めるために行われた側面もあります。

c-ⅳ「皇帝」vs「教皇」inフィレンツェ

では、この「皇帝」と「教皇」の争いが本格的にイタリアのフィレンツェで問題になりだしたのはいつなのでしょうか?
マキアヴェッリの『フィレンツェ史』によると、フィレンツェで起こっていたブオンデルモンティ家とウベルティ家の争いから始まった内紛に、1249年「皇帝」フリードリヒ(フェデリゴ)2世がウベルティ家に支援したことから本格化するようです。
このフリードリヒ2世ですが、これより少し前から、「教皇」グレゴリウス9世と対立していたため、フリードリヒ2世がフィレンツェの内紛に支援したため、この「皇帝」と「教皇」の対立がフィレンツェにも入り込んできたようです。
またフリードリヒ2世は、モンゴル帝国と1241年にワールシュタットの戦いで戦っており、このモンゴル帝国がヨーロッパ付近からアフリカ・東洋と覇権を伸ばしたため東方貿易が潤い、地中海の貿易の拠点であるイタリアが栄えてきだしていたという背景があります。マキャアヴェッリが「フィレンツェは内部分裂を起こすごとに経済が盛んになっていった」と言っているように、東方貿易でフィレンツェが栄えて経済的に拡大したがために、内紛が激しくなる一方、勝ったものが更にフィレンツェを栄えさせたとも考えられます。
とにもかくにも、こうしてフィレンツェに「教皇派」と「皇帝派」の対立が本格化します。

c-ⅴ.「教皇」と「フランス」の結びつき(「教皇派」の勝利)

その後、イタリア全土において「教皇派」が力を付けるのですが、「教皇派」が力を付けた背景には、「教皇」と「フランス」が結びついたことが関係します。
1099年から「十字軍」の遠征が何度か行われる内に、騎士(封建)階級が遠征参加にお金を使いすぎ没落し、農民や商人が力を付けてゆきます。農民は治めていた騎士階級が農地を売りに出したため独立農民に、また商人は貿易が盛んになり儲け始めます。そのため、経済が盛んな国を治めている国王ほど権力を持てるようになり、いつしか「皇帝」に対抗できる存在になるものもいたのです。それが「フランス」国王でした。
「皇帝」フリードリヒ2世が1249年にフィレンツェに介入したように、この時はイタリアにおける「皇帝派」の勢力が強くなりつつありました。
しかし、「教皇」クレメンス4世(因みにマルコ・ポーロが生まれたのもこの時期に生まれる)は、フランス国王の支援を受けて、「皇帝」派をイタリアから一掃します。1268年のシチリアで「皇帝」勢力を「教皇」・「フランス国王」で一掃したことが有名です。
こうして、イタリアは「教皇派」が優勢になります。
そして、フィレンツェも「教皇派」と「皇帝派」で対立をしていたのですが、「皇帝派」を追い出し、「教皇派」が政治を執るようになります。

ボニファティウス8世の介入

~ダンテが巻き込まれた内紛にボニファティウス8世はどの様に介入したのか?~

1300年にフィレンツェで「教皇派」が内部分裂して「白党」と「黒党」の争いが激化し、ついには「白党」が敗れ、「白党」の幹部だったダンテはフィレンツェを追放されます。
この「白党」が敗れた大きな原因は、「黒党」に「教皇」ボニファティウス8世が支援し、更に「教皇」ボニファティウス8世は「フランス国王」フィリップ4世の力を借りたため、「黒党」は大きなバックボーンを得たところにあります。

しかし、この2人(「教皇」ボニファティウス8世と「フランス国王」フィリップ4世)、
実は1302年のアナーニ事件において歴史的にかなり有名な騒動を起こしています。

ではなぜそんな二人が、なぜフィレンツェの内紛にかかわったのでしょうか?

ボニファティウス8世とフランス国王が内紛に関わった理由

1300年、カトリック教会は絶頂期でした。

そして、ボニファティウスは十字軍の遠征の延長として、フランス国王の協力を得て、教皇派の黒党を支援しました。
なぜ黒党かというと、白党に対抗する勢力を持っていて、しかも押され気味で「教皇」に助けを求めてきたからだと思います。
フランスが協力したのは、イタリアでフランスも利権を得たかったためでしょう。

では、なぜ絶頂期だったのでしょう?

その理由は大きく分けて3つあると思います。
ⅰ.敵対勢力を排斥することができたため
ⅱ.教皇が威信を振るえる体制が確立できたため
ⅲ.お金が入るようなシステムを構築できたため
。。。の3点です。

ⅰ.敵対勢力を排斥することができたため

まず、敵対勢力を排除することができたため、「教皇」の威信が高まりました。
簡単に排除できた対象を分類すると
①皇帝 ②異教徒 ③内部の反対勢力
の3つに分類できます。

①皇帝
1268年に、フランス国王と協力して、「国王」フリードリヒ2世をイタリアから一掃したことにより、キリスト教の本拠地であるローマにおいて、「教皇」の力を牽制しうる「皇帝」を排斥できたことが特に「教皇」の威信を高めたのです。
②異教徒
また1099年から始まった十字軍遠征により、東方においては思ったほどの効果が得れなかったものの攻撃を示すことで威信を示せ、西方においてはイベリア半島にいたイスラム教勢力をかなりの排斥するなど、キリスト教以外の宗教を排斥することでも「教皇」の威信を高めたのです。
③内部の反対勢力
また12世紀初め辺りから、ヴァウド派やカタリ派など作法の簡素化や思想の変更などカトリックにとって異端ともされる宗派が登場してきました。
そこで、その異端を排斥するために、ドメニコ会やフランシスコ会など托鉢という形態の崇拝を認め、教会の私有財産を持たない、清貧のある修道会が登場し、異端派を追い詰めました。また、もともとは聖地奪還の十字軍でしたが異端派の排斥が目的になり、フランスなどが活躍して十字軍の名のもとに摘発を行いました。
後者の十字軍でのフランスの活躍は、「教皇」の威信を高めるとともにフランスの威信も高めるきっかけになりました。

ⅱ.教皇が威信を振るえる体制が確立できたため

教皇が威信を振るえる体制が確立できた背景には、
①教皇の唱えることの正しさが証明された
②教皇を中心とした指令系統ができた
の2点にあると思います。

①教皇の唱えることの正しさが証明された
12世紀になると、イベリア半島のイスラム勢力を追い詰めてきたため、イスラム圏で普及していたギリシア時代の哲学など、今までと違う考え方がでてきます。
そのため、異端信仰が出てきたり、キリスト教の正しさの否定や矛盾が唱えられるようになりました。
その中で、トマス・アクィナスという方が『神学大全』などの著書をまとめ上げ、「スコラ哲学」によりキリスト教の考え方を新たに体系化しました。それによって、否定や矛盾に十分にキリスト教の正しさを答えられるようになり、「教皇」の威信が高まったのです。

②教皇を中心とした指令系統ができた
十字軍の遠征は、結果はまちまちですが、「教皇」の呼びかけにより動くという指令系統の確立に繋がりました。

ⅲ.お金が入るようなシステムを構築できたため

教会を使って、お金を集めるシステムも確立しつつあったのです。

更に、ボニファティウスは1300年に聖誕祭という大規模な宗教イベントを立てることで、ヨーロッパ各地から巡礼がローマに訪れ、お金が入るシステムを作ります。

※『フィレンツェ史』マキァヴェッリ著(斎藤寛海・訳)/2012.3.16 / 岩波書店 を基本的に参照して執筆。

※『物語 イタリアの歴史Ⅱ』藤沢道郎 2004.11.25中央公論新社 はボニファティウス8世の人柄が詳しく書いてあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です