マルコポーロの父親ニッコロは、ヴェネツィア出身の商人。モンゴル帝国(元)のおかげで流動的になった東方貿易に参加すべく、コンスタンティノープル(オスマン帝国やコンスタンティノープル陥落以前の)に住む。
しかし、1260年政変が起こる予感がして、コンスタンティノープルを離れ、毛皮貿易が盛んなクリミアに行く、更に紹介でモンゴルまで行き、1266年クビライ(フラビライ・ハン)に謁見。
クビライは西ヨーロッパのキリスト教文化に興味を持ち、教皇と連絡を取ることを望む。
それを受けて、父親ニッコロは教皇に連絡をとろうと思うもクレメンス4世が亡くなって(1268年)から、教皇が決まらない状態が続き、とりあえずイタリアに戻ることにする。
そのとき、ヴェネツィアに残していた息子マルコポーロを初対面。少しの期間待つも教皇が決まらずクビライに待たせていることを伝えようと再び息子マルコポーロを連れてモンゴルに旅立つ(1271年)。
そして旅の途中に教皇が決まりクビライの夏の都・上都(現在の内蒙古自治区の真ん中辺り)に到着。父親やマルコポーロは教養があり、多言語を話せたため、元の役人として雇われる。その際、日本に関しての伝聞も聞く。
しかし、クビライが亡くなった場合、政敵に狙われることを恐れ帰国することを決断する。クビライには止められるが、クビライの身内がイル・ハン国(モンゴルの西側のヨーロッパとの中間辺り)に嫁ぐため、陸路だと危険であるため航路を使うことになり、航海に詳しいマルコポーロなどが付き添うことを条件に帰国が認められる。つまり行きは陸路で、帰りは航路だった。
因みにモンゴルは帝王の強い権力により貨幣の流通が盛んで、紙幣も流通していた。更に南ドイツなどで産出できる銅や銀を輸入していて、銅や銀などの裏付けもあるため貨幣の信用は高かった。1241年にワーテルシュタットの戦いというモンゴル帝国が西ヨーロッパに攻め込む事件があったときにようやく西ヨーロッパでは北ドイツを中心とする商人団体の結成・ハンザ同盟の母体ができ始め、貨幣経済からの商業が盛んになりだしていた頃だった。つまり、この時点ではモンゴル帝国の方が、商業が盛んだった。
その後、マルコポーロはヴェネティアとジェノバの争い(当時両方イタリア有数の貿易国であり、ライバルだった)から、ジェノバの捕虜になり、その捕虜生活において東方見聞録が執筆される切っ掛けをつくる。その後も20年ほど生きるが旅をすることなく、穏やかな日々を過ごしたらしい。