渋谷駅・Bunkamura・ザ・ミュージアムで開催されている「神聖ローマ帝国皇帝 ルドルフ2世の驚異の世界展」を観に行って来ました。
そこで改めてルドルフ2世をスポットライトを当てることで時代の空気を読んでみようと思いました。

ルドルフ2世は、皇帝でありながらあまり外に出掛けず、宮廷に籠りがちでした。
そのため、政治においてはあまり上手くはなかったものの、
稀代のコレクターであった長所を生かし、16世紀後半の神聖ローマ帝国を中心とする芸術の発展を促しました。

今回の企画展では、そのルドルフ2世のコレクションと懇意にした芸術家達の作品が展示されています。

本稿においては、ルドルフ2世を中心に16世紀後半の神聖ローマ帝国を中心とした芸術や学問の「時代の空気」を読んでいきたいと思います。

なお、ルドルフ2世を知ることは今話題の上野駅の西洋美術館で開催されている「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」も更に楽しめるポイントとものなります。
そちらも期待しながら、是非とも読み進めていただけたら、大変嬉しいです。

目次
【1. 宗教革命の余波が残った時代に生まれる】
【2. スペインの宮廷で育てられたコレクター魂】
【3. 宗教紛争に巻き込まれるルドルフ2世】
【4. 芸術の理解者としてのルドルフ2世】

【1.宗教革命の余波が残った時代に生まれる】

ルドルフ2世は、1552年神聖ローマ帝国(現在のドイツやオーストリアなどを含む国)にて生まれました。徳川家康が1543年に生まれ、ガリレイ・ガリレオが1564年生まれなので、ちょうどその間くらいに生まれた。

ルターの宗教革命(1500年前半)も神聖ローマ帝国で起こった出来事であり、その後もプロテスタントとカトリックによる対立が続いている状態が続いていました。

ではそもそも、なぜ宗教革命が起こったのでしょうか?

神学的な論争も原因としてあるのですが、神聖ローマ帝国の政治体制とも関わりがあります。

神聖ローマ帝国は、神聖ローマ帝国の中の領地を納めている7人の代表者(選帝候)が投票して、皇帝を選ぶシステムです。その為、皇帝自信は選帝候によって選ばれるため、選帝候によって都合のよい人が皇帝に選ばれ、皇帝の力が弱くなる傾向にあります。
しかし、皇帝の力が弱いということは、国の統一感がなくなってしまうことでもあります。

1453年イスラム勢力によってコンスタンティノープル陥落によって東ローマ帝国が滅亡したことに象徴されるように、15世紀半ばから特にイスラム勢力が西ヨーロッパに勢いをつけて迫ってきていました。
そのため、西ヨーロッパの中心の国とも言える国とも言える神聖ローマ帝国も統一感を持って協力し、イスラム勢力に対抗する必要がありました。
そこでマクシミリアン1世という皇帝が、神聖ローマ帝国の領主達を対イスラム勢力という目的を掲げることでまとめあげ、皇帝の権力を強めることに成功しました。
更に、その次の皇帝カール5世は皇帝の統治を確固たるものにするために、神聖ローマ帝国内で税を上手く取り立て皇帝に財力が増えるようなシステムを構築することにしました。特に教会を使った税の取り立てを強化しました。当時はキリスト教の考えから、利益を多く稼ぐことは悪いことだという価値観がありました。そのため、銀行や貿易などで多く稼いだ人も、教会にお金を納めることで、多く稼いだ罪を許してもらおうと考える風潮にありました。それを分かりやすく「免罪符」というカタチあるものにすることで、より効率よく教会でお金を集め、教会から税として皇帝にお金が集まるようになっていました。

そのため、皇帝の力が増すばかりで、領主達は皇帝の力を押さえる方法を探す意識が強くなってきました。また、宗教的にも神の許しというものが「免罪符」というカタチある商品として売られていることにも違和感を覚える雰囲気が芽生えていました。
そこで、ルターが宗教的違和感から「免罪符」などを中心とする教会システムを批判したのをキッカケに、領主達がルターの考えを使えば皇帝に対抗できる(皇帝の力を抑止できる)と考え、ルターの運動を支援しました。こうして、ルター自身は純粋な神学的な議論を考えていたのですが、予想に反して大きな現状の宗教(カトリック)と新たな宗教(プロテスタント)の大きな対立問題となったのです。
そして、皇帝と領主の対立運動に加え、さらに虐げらていた農民などもルターの考えを使って反乱を起こすなどルターの宗教改革の余波はなかなか収まらない状況でした。

そんな状況にルドルフ2世は生まれたのです。

【2・スペインの宮廷で育てられたコレクター魂】

ルドルフ2世の父であり、生まれたときの皇帝でもあったマクシミリアン2世は、対抗してくる人達の気持ちも汲んであげようとプロテスタント寄りの考えを持ち始めていました。

しかし、ルドルフ2世の叔父(祖父の息子)でもあるスペインの国王フェリペ2世は、ルドルフ2世のことを案じ(伝統あるカトリック教育をすべきだと考え)、神聖ローマ帝国からスペインにルドルフ2世を移らせ、スペインのマドリードの宮廷でルドルフ2世の幼少時代を過ごさせるようにしました(1563年から1571年)。

当時スペインは、「陽の沈まぬ帝国」とも言われる黄金期に入ろうとしていたため、世界でもトップクラスの国でもあり、ルドルフ2世にとっても高水準の君主教育を受けることになりました。またスペインは、また1490年代のコロンブスの新大陸発見以来、西回りで東南アジアまで植民地や貿易を広げていて、世界の広範囲を治める国でもありました。

世界の広い範囲を治めているということは、広い範囲のものを入手できるようになるということでもあり、スペインは珍しいものなどが集まるようになっていました。また、世界でもトップクラスの国ということは、珍しいもの有名なものを集めることのできる力があったということでもあります。

そのような環境に、ルドルフ2世は触れたのです。

スペインの宮廷には当時の有名画家・フランドルのボスや、ヴェネツィアのティツィアーノなどの作品がありました。

またこれらのフェリペ2世の時代に宮廷に集められたコレクションをベースとして発展していき、世界的に有名なスペインのプラド美術館が形成されています。

このように、コレクターとしての精神は、ルドルフ2世が子供の時に、育ったスペイン宮廷が大きく影響していたのです。

【3.宗教紛争に巻き込まれるルドルフ2世】

スペインから戻り、1576年24歳のとき、ルドルフ2世は神聖ローマ皇帝として即位します。
スペインの教育の影響で、ルドルフ2世は厳格なカトリック教徒となっていました。

そのため、国内で蔓延りつつあったプロテスタント教徒が気にかかり弾圧を始めます。
この1500年代後半は、カトリックよって国王の権力を高め統治するために、大規模なプロテスタント弾圧が他の国でも行われていた年でもあります。
ルドルフ2世がスペインで幼少期を過ごすきっかけを作ったフェリペ2世もネーデルランドのプロテスタントの弾圧を行っています。フランスにおいても1572年サンバルテルミの弾圧によって、カトリーヌ・ド・メディシスが大規模なプロテスタントの弾圧を行っています。
おそらくこれらの流れも念頭にあったのだと思います。

しかし、政治的に徹底力や指導力の低かったルドルフ2世では、プロテスタントを制圧できずもて余してしまった節があります。
そのため、1583年には宮廷をウィーンからプラハに移動しています。
プラハ移動の目的は宗教弾圧をさけるということだけでなく、他にも目的はあったが、このプラハ移動はルドルフ2世の宗教紛争の今後の関わり方を象徴しています。
基本的には紛争を避けるために取り敢えずの対策は打つが、結局不徹底なため、反乱が起こり収拾がつかなくなってしまうという流れが何度か続き、最終的にはルドルフ2世は王位を追われてしまいます。

年号でおっていくと、
1576年にプロテスタントの弾圧を行うが、国内情勢が一気に不安定化し、各地で反乱。特にハンガリーが凄まじい。
そのため、1583年に宮廷をプラハに移動し、宗教紛争を避けようとする。そして、1606年には信教の自由を認める。
しかし、それが不徹底なため、ハンガリーで大規模な反乱が起こる。
そのため、ハンガリーでの王位を放棄し、弟のマティアスに王位を譲る。
さらにハンガリーのように反乱が起こることを恐れたルドルフ2世は、ボヘミアにおける信仰の自由を認めたが、ハンガリーと同様に政策が不徹底だったため、ボヘミアにおいても反乱の兆しが見える。
また1611年には、弟のマティアスは仕事の失敗により、ルドルフ2世から見放されていた状況に不満を抱き、ハンガリーの反乱勢力を利用して、ルドルフ2世を帝位から引きずり下ろす。
というような流れです。

もちろん、同時代の王位にあるものは同じように反乱を抑えきれない状況にはあります。
フェリペ2世もネーデルランドの反乱が高まり、1581年にはオランダとしての独立運動が起こります。さらに、フェリペ2世の勢力を海賊によって攻撃することによって利益をあげていたイギリスも、フェリペ2世に対抗すべく、オランダを支援して1588年にフェリペ2世の無敵艦隊を破っています。これを機に、スペインは税収を大幅にオランダに依存していたため大打撃をうけて、衰退の道をあゆんでいっています。
またフランスも1600年初頭には信教の自由という寛容政策に移行しています。
このように、確かに時代的にはルドルフ2世がプロテスタント勢力を抑えきれなかったのは仕方がないのかもしれないが、しかしルドルフ2世は不徹底と逃避が目立っているように思います。

【4・芸術の理解者としてのルドルフ2世】

このように政治的に不徹底や指導力の無さが目立ったルドルフ2世だが、決して将来像や国家の秩序から逃げていたわけではなかったとも思えます。
彼は、当時大きく時代を変えつつある学問に着目して、学問による秩序を作ろうとしていたのです。

では彼が注目した学問とはなんだったのでしょうか?

① 写実的な描画法
まず一つ目は絵画です。ルドルフ2世が生まれる少し前にはイタリアでルネサンスが起こっていました。
ルネサンスにおいて絵画は、より客観的に観察して、現実のあり方を理論や法則で定義して、それに基づいて描画する技術が発達しつつありました。
遠近法という技術は、目に写っている景色を、観察者に対して平行に設置された平面で捉えたとき、遠くにいくにつれて消失点という点に向かって集まっていきます。また、遠くいくにつれて色が黒に近づいていきます。
また描く対象としての人体も、比率におって目の位置や手の長さなどを定められることや、筋肉の解剖によって影やシワのでき方がわかります。
など、現実を客観的な法則や理論としてとらえて描く技術が発達し、完成されつつあったのです。

 

② 図鑑
そして、その現実を客観的な観察に基づき描いていく技術によって、新しい世界も正確に理論や法則に基づいて描画し、まとめていくという習慣にも繋がりました。
また同時に印刷技術も向上し、紙の生産も向上し、以前に比べて容易に本を出版・印刷して多くの人に読んでもらうことが可能になりました。
これによって、新たな世界をまとめた図鑑の流行に繋がりました。

新たな世界とはまずは、大航海時代であったため、未知の大陸などに生息している生物や植物のことである。ルドルフ2世は自身の宮廷に世界の航海によって集められた珍しい生物や植物を集めて、コレクションする部屋「驚異の部屋」を作った。
また、その新たな世界を、新たな世界を描画できる技術を持った画家を集めて図鑑を作らせ、普及させることを行いました。

次に、新たな世界とは天体であった。ルドルフ2世の時代にはまだ望遠鏡は発達していなかったが、肉眼で定規のようにメモリの入った道具を使って、天体の動きや位置を数値で記し、法則や理論を提供できるようになりました。ルドルフ2世は、デンマークで天体の詳しい観察を行っていたティコ・ブラーエを、彼から贈呈された『天文学の観察装置』という本を見て知り、1596年に宮廷に招いています。
またティコの助手のような立場として働いたケプラーも有名です。ケプラーは、数学的能力に優れていて、ティコの観察データを地道に分析し、『ルドルフ表』という天体観察にかんする詳細なデータ本を完成させました。ケプラーの功績は、ガリレオの観察ともに、大きくニュートンに影響を与え万有引力の発見に大きく貢献しています。

③ 芸術
ただ、新しい世界を見させてくれる画家も、当時は職人の一人でした。
ルドルフ2世は、新しい可能性を開く画家を、他の物を作る「手仕事」としての職人達と同じではなく、文化の発展の担い手として重要視しました。
1597年には、ルドルフ2世は絵画を「手仕事」から「芸術」への勅令を出しています。

1597年付近は、ルドルフ2世がプロテスタントの弾圧をしつつも、反乱が押さえきれずプラハに移動し、数年後に信教の自由を認める時期でした。

つまり、宗教紛争をどうにか収束させ、新たな統治ビジョンを示そうとした時期としても考えることもできます。

またこれより少し前に、1591年様々な植物や生物を組み合わせることによって人物を連想される絵で有名なアルチンボルドがルドルフ2世をウェルトゥムヌス(万物の司神)に扮したものを、植物の絵のコラージュで描いたものを贈呈しています。
現代人の感覚でみると権威のある王が植物のコラージュで描くなんてどうなの?と思うかもしれないが、ルドルフは逆でした。大満足だったのです。

画家は画力によって、新しい世界を描くことができます。そして、新しい世界を好きなのようにコラージュして、新しい世界も作ることができます。そして、その新しい世界として描かれた皇帝こそ、新しい世界の担い手であるのだ。と捉えられたのです。

当時は写真もなかったので、本物と同じようにリアルに描くことでも驚きでした。それを見たこと無いような世界まで描けるのであれば、さらに驚きでした。そして、それを自由にコラージュできたのなら、それは奇跡なのでした。

このような奇跡を起こせるのが画家であり、その奇跡を起こせる画家を司る皇帝こそ統治の中心であるという考えなのです。

但し、ルドルフ2世は画家のみを重要視したわけではありません。画家はグラフィックで分かりやすく示せるので取り分け顕著だが、他にも新しい世界を客観的な理論や法則でまとめた天文学者や錬金術師(錬金術も実験や観察に基づく知見を集めて示した)なども重要視しています。

これがルドルフ2世が目指した、「学問と正義を司る皇帝(ハプスブルグ家・皇帝の家柄)」という理想なのかなと思いました。

※こちらの文章はWikipediaのルドルフ2世と、渋谷駅Bunkamura・ザ・ミュージアムの「ルドルフ2世 驚異の世界展」と『ハプスブルク家』江村洋(講談社現代新書1990.8.20)を参考にして、後は推測を含めて書いた文章です。

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