デカルトは心理学者でもあった?

デカルトの晩年の著作に『情念論』という著作があります。
そこでは、喜怒哀楽などの感情についてや脳の機能など、心理学的なテーマを扱っています。

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上のような図(※1)を見ますと、まさに感情を扱った「心理学」の本のような気がします。

それではなぜデカルトは「心理学的なテーマ」を扱ったのでしょうか?

今回は、『情念論』をはじめとして、デカルトを通して「時代の空気」を読んでいきたいと思います。

目次
 1・デカルトは人生をかけて何をしたかったのか?
 2・デカルトが触れた科学
 3・デカルトが触れた哲学
 補足・デカルトと宗教的な時代の関わり

【1・デカルトは人生をかけて何をしたかったのか?】

デカルトと言いますと、「我思う、故に我あり」で有名なように哲学の人であるというイメージが強いような気がします。
もちろん、ルネサンスの頃からデカルトの時代にかけて発達してきた科学と、キリスト教などの宗教はお互いにどうあるべきか示した哲学こそが彼を有名にしているのだと思います。
事実、古代ギリシャの哲学者の文献を多く読み批判して哲学に新たな方向性を示しています。

しかし、一方でデカルトは自分で解剖を行ったり、運動や光について考えたり、数学の新しい在り方を考えたるなど、科学者のような側面も多分にあります。
有名な著作『方法序説』も、光学・気象学・幾何学(図形を代数で扱う学問)の三つのテーマを扱った論文の序文です。また冒頭で挙げた『情念論』も多くの部分で生理学のテーマを扱っています。

つまり、『情念論』とは「哲学者・デカルト」と「科学者・デカルト」が結び付いたデカルトの集大成とも言える著作なのです。

『情念論』が執筆されたのは、1549年です。
デカルトは1550年になくなるので、最晩年の著書とも言えるでしょう。
そして、デカルトの人生とはまさに「哲学」と「科学」の在り方を模索し続けた人生とも言えるため、デカルトの知恵が詰まった著作とも言えると思います。

【2・デカルトが触れた科学】

デカルトが触れた「科学」とは、一体何だったのでしょうか?

一番で有名なところでは、ガリレイ・ガリレオがいます。
ガリレオは1564年にイタリアで生まれました。そのため、1596年生まれのデカルトにとっては、30歳以上年上でした。しかし、ライヴでデカルトに影響しています。
1607年(11歳)頃からデカルトはラ・フレーシュ学院に通っていますが、1610年にガリレオが前年辺りから自作した望遠鏡で木星の衛星を観測した祝いとしてその学院は祝祭を行っています。また1633年(37歳)『宇宙論』という著作を出そうとしたときも、ガリレオが地動説による着想から裁判に発展し死刑宣告されそうになったため、発刊を取り止めたなどあります。
ガリレオは望遠鏡による天体観測により地動説を立証し唱えたこと(天文学)が有名ですが、ピサの斜塔から異なる重さの物体を落とした実験(力学)も有名です。
天文学においては今まで肉眼で観測していたのを、当時のレンズ(光学)の発達により作ることが可能になった望遠鏡をいち早く作り観測に生かしたことが重要です。天体の観測した自体はガリレオの観測し始めた時期には盛んになっており、肉眼で天体の動きを定規のように目盛りのついた道具で丹念に観測し数字データを集めたティコ・ブラーエ(1546年生まれ)やティコ・ブラーエのデータを引き継ぎ数字データから天体の動きの法則を見いだす鍵となる天体の動きの傾向を発表したケプラー(1571年生まれ)などがいました。特にケプラーの重要な発表は「ケプラーの法則」と呼ばれ、ガリレオが望遠鏡観察を始めた1609年から発表されています。
力学においてはガリレオは、力と物体と重力の関係を実際に実験して著作(『レ・メカニケ』1634年出版)を出しています。これは1400年代半ばから大砲の弾道研究(1450年の東ローマ帝国滅亡の大砲の活躍などのように大砲の重要性が注目されてきた時期で、この頃の大砲は弾道が肉眼で観察できるスピードであったため)をしたタルタリア(1499年頃生まれ)などより、今まで信じられてきたアリストテレス(紀元前4世紀位の人)の力学の再考の可能性が見出だされ、力学が注目されてきた流れの中で体系立てて論じた著作で、ガリレオの天体の動きの説明などにも役立っています。

また血液が循環していることを発見したウィリアム・ハーヴェー(1578年生まれ)も有名です。
デカルトもウィリアム・ハーヴェーに影響を受けていて、血液循環を生理学に関する著作(ちなみに『情念論』にも血液循環が書かれている)で書いています。
ウィリアム・ハーヴェーの血液循環論は、長年信じられていたアリストテレスの生理学を実験などを通して体系的にそして詳しく論じたガレヌス(紀元1世紀位の人)の生理学を解剖学的な側面で再考を促したヴェサリウス(1514年生まれ)を追って、機能面から再考を促す可能性がありました。
因みにヴェサリウスはルネサンス付近の人物で、1400年後半に始まりだした人体の解剖と、グーテンベルクの印刷技術の発展と安価な紙の製造法の発見による出版ブームと、色々な所に旅をして観察した生物や物をまとめて発表する図鑑ブームの流れの中で、初めての観察に基づく詳細で体系的な解剖書(図鑑)を出すことで有名になった方です。(※ルネサンスの解剖で有名な人物としてはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452年生まれ)がいますが、彼の時代には解剖の所見を基に写実的な絵画を描く流れがありました。また図鑑においては南方熊楠が多大な影響を受けたゲスナー(1516年生まれ)が多少有名で、今までは動物などについて議論する際には過去の書物からその生物に関する情報を集める慣習から、実際に旅に出て動物を観察にした情報に重きを置く流れがありました。)
ヴェサリウスの解剖書の普及により、アリストテレスやガレヌスなどの古(いにしえ)の書物だけ捕らわれることなく、実際に解剖して人体の生理を探求する流れができたのです。そしてハーヴェーはその流れの中で、血液が循環していると言うことを発見したのです。
(※因みにデカルトは、アリストテレスは脳が血液を冷すと言っていたのを、肺が血液を冷やすとしています。また脳の中の松果体が感情(情念)を生み出すとしていて、神経が脳と繋がって感覚を得ていると考えています。しかし、神経の中にはガレヌスが唱えていた動物精気が流れているなど、アリストテレスやガレヌスの知見もベースにはなっている。)

【3・デカルトが触れた哲学】

さて、実はこちらが重要です。

というのは、『科学=無宗教』というイメージはありませんか?

科学の発達により、神の影響力が薄まった頃に書かれたニーチェの『アンチクリスト』にも、科学はキリスト教を否定するために、キリスト教は科学を否定してきた、というような記述もあります。

様々なイメージがあり、宗教と科学の調和の仕方というものは、なかなか考えない物だと思います。

しかし、ヨーロッパにおいては科学をキリスト教の在り方を何度も模索しているのです。

デカルトも同じでした。
彼が為し遂げようとしたことは、(前の項で見たような)新しい科学が発展するなかで、新しいキリスト教と哲学の在り方を模索して示した、と言っても過言ではないと思い、デカルトが触れた哲学は重要だと思います。

デカルトの時代はまだトマス・アクィナス(13世紀の人)が完成させた「スコラ哲学」と言うものが力を持っていました。
トマス・アクィナスより1世紀くらい前から十字軍の遠征が始まりオスマン帝国などのイスラム圏の東方と関わる機会が多くなりました(スペインにおいては多くの領土がイスラム教の統治下であったのがキリスト教の勢力が巻き返し奪い返している)。イスラム圏では紆余曲折があり、キリスト教の国が忘れ去っていたアリストテレスを始めとする古代ギリシャの学問が保存・普及していました。それが、イスラム圏との関わりにより(十字軍ばかりでなく貿易盛んになってきていた)、その古代ギリシャの哲学(主にアリストテレスの哲学)がだんだんキリスト教統治下のヨーロッパにも入ってきたのです。
アリストテレスの哲学は、科学的な側面は非常に優れていたため、ヨーロッパに普及しつつ(といっても書物を持てた一部の階層の人だけですが)しました。しかし、哲学的な側面においては、キリスト教の世界観と矛盾する部分も多く、ヨーロッパでは問題視もされ始めていたのです。
そこで、文明の発達(特に物質的な)のためにアリストテレスの哲学を受け入れるために、キリスト教とアリストテレスの哲学の矛盾を上手く解消し、調和させたのが「スコラ哲学」なのです。

そして、トマス・アクィナスがなくなり、1~2世紀経ち、古代ギリシャ哲学の普及が更に進み、また印刷7と製紙技術の発展により本の普及により、より多くの層にまで普及にし始め、「ルネサンス」が始まりました。このときにはアリストテレスだけではなく、プラトン哲学やヘルメス思想・原子論・ギリシア数学(※2)など古代ギリシャの多方面の知識が普及します。
またアクィナスの時代よりも個人で再考していこうと言う意識や、ガリレオやダ・ヴィンチのような知識を自分で観察したり実験したりしていこうという新たな手法も加わり、「スコラ哲学」ではもはや統合をとることができなくなったのです。

こうして、デカルトの時代には現状を容認する新たな哲学が模索され始めたのです。

そして、有名なガリレオもこの流れの中にはいたのです。
ガリレオが「地動説」の件で宗教裁判にかけられたのも、「地動説」や「科学」そのものが問題だった訳でなく、「地動説」と「キリスト教」を調和させた世界観だったり「むしろそれは個人的・政治的な要素が複雑に絡んだ事件であったのが真相」(※3)のようです。
ガリレオが宗教裁判をかけられたのが1633年ですが、それより前の1600年に「火炙りの刑」で処されたブルーノ(1548年生まれ)も「地動説よりも彼の神学上の思想の方が問題だった」(※4)とのこと。
つまり、新たな科学を包括するための新たなキリスト教と調和する世界観が唱えられていったのです。
※因みにコペルニクス(1473年生まれ)も本職は聖職者で「地動説」を含めたキリスト教との調和する新たな世界観を描いているよう。

またガリレオの生年が1564年(シェイクスピアと同じ!!)ですが、同時期に生まれたフランシス・ベーコン(1561年生まれ)という方もいます。彼は当時の科学の発達を見て、科学の発達の根底にあるのは「帰納法(実験や観察から法則を見いだす事)」であると考え、古代ギリシャから現在までの知識の発達を概観し、新しい世界観を描いています。因みに、ベーコンはジェームズ1世の時の大法官を行っていて、政治にも関わっています。
ベーコンと同じく政治に関わりながらも、新しい科学にも明るく、新しい世界観を描いたトマス・ホッブズ(1588年生まれ)もいます。彼はデカルトととも交流があり、デカルトの『省察』という著作においてはデカルト自身に頼まれ批評しています。トマス・ホッブスはチャールズ2世の家庭教師をしたり、『リヴァイアサン』という著作で絶対王政に対しての理論的支柱となります。

このような哲学とデカルトは触れ合ったのです。

【補足・デカルトと宗教的な事件との関わり】

最後に、前章にてデカルトの思想は、科学的なだけでなく宗教的な流れも大きく影響した事を踏まえて、デカルトの人生(特に前半)と関わった宗教と関わりにある事を3つのキーワードを基に紹介します。

① ラ・フレーシュ学院
1607年(11歳)頃から、フランスのイエズス会が運営しているラ・フレーシュ学院に通いだします。
ラ・フレーシュ学院とは当時の王・アンリ4世の邸宅でもあった城を、王から譲り受け学校として運営していたようです。
イエズス会というとフランシス・ザビエルを思い出しますが、ザビエルが日本に1550年頃来る前に1515年頃に起こったルターの宗教革命から登場したプロテスタント(聖書重視)に対抗すべく、カトリック(教会重視)の力を盛り返そうと考え、ザビエル達が1534年に打ち立てた協会です。
その時の王がダ・ヴィンチの死を見届けた事で有名なフランソワ1世です。フランソワ1世は皇帝カール5世に対抗して、カトリックの勢力を支援して、フランスの国力を挙げる政策に出ました。なぜカトリックだったのかと言いますと、カトリックは歴史的に政治と密着していて、教会を通して資金を得て、財政を潤す事に貢献していた事が多くの影響します。そもそも宗教革命とは、皇帝カール5世がカトリックを支援し、教会の収入として免罪符を売っている状況に憂い、ルターが檄文を掲示したのが発端なのです。そして、同じようにフランスでもフランソワ1世下での免罪符の発行に対してプロテスタントが蜂起しています。そして、カトリックとプロテスタントでいがみ合うユグノー(フランスのプロテスタントの呼び名)戦争がフランソワ1世の死後勃発し、16世紀後半はプロテスタントとカトリックの血みどろの争いが半世紀近く続きます。
このユグノー戦争を終わらせたのがアンリ4世です。1598年のナント勅令によってですから、デカルトが2歳位の時です。アンリ4世はこの時辺りはカトリックとプロテスタントの両立を目指していたのですが、少し前の1594年にイエズス会が運営していた学校の学生がアンリ4世暗殺未遂を起こしたため、イエズス会はフランスから一時影を潜めてました。
しかし、理由は現在までも不明であるらしいのですが、アンリ4世はイエズス会を許し、議会の反対を押し切ってまでイエズス会の学校運営再開を促し、1604年フランスでの心機一転の再スタートとしてラ・フレーシュ学院を開設したのです(多分国王の独断性が強いため自身の邸宅を渡したのだろう)。(※5)
イエズス会はカトリックのため、「スコラ哲学」を中心とするキリスト教と科学の調和を測る気風のようだったのですが、新しい科学には前向きでガリレオの木星の衛星発見(1610年)なども祝っています。
また学院でできたメルセンヌという友人は、後々のホッブズなど様々な文化人との出会いの助けとなります。

その後、1614年にはポワティエ大学にて法学と医学を学びます。
このときの医学の見識が後々の生理学を唱えるデカルトに繋がっていきます。

② 八十年戦争
1618年には、オランダ独立戦争(八十年戦争)に参加すべくデカルトはマウリッツ軍に加わる。※このマウリッツ(1567年生まれ、伊達政宗と同じ)は、日本が江戸時代のオランダと貿易し始めるときの代表者としても名を残している。後の三十年戦争においてもマウリッツはオランダ提督として活躍し、徹底した軍隊のマニュアル化をしたことで軍隊革命も行っています。
この時、イザラク・ベークマンに出会い、学問の基礎としての数学の有用性を再確認する。これが後々の図形を代数で解く解析幾何学を提唱した論文『幾何学』(1637の『方法序説』と共に出版)に繋がります。

③ 三十年戦争
1619年には三十年戦争がドイツで勃発すると、デカルトはドイツに移って戦争に参加しています。
三十年戦争とはドイツに国内でのカトリックとプロテスタントの争いにより始まり、その後ドイツ周辺の国がそれぞれの宗派に基づき支援したために後々の大戦争になった出来事です。
デカルトはカトリック側の軍隊に参加しています。しかし、フランスの学院はカトリック、オランダではプロテスタント、今回はカトリック、そして晩年にはプロテスタントの国がスウェーデンに行ったりしたため、デカルトは宗派よりも様々な立場を見たかったのかもしれません(但し、スウェーデンでは女王がデカルトの死を受けて、カトリックに改宗。デカルトと宗派の関係はよく調べないと分かりません)。
そして、冬になり軍隊が冬営(冬になり休戦すること)したときに、デカルトは炉部屋に籠り、「神秘的な夢」を見まて啓示を受け、古代ギリシャの知識やスコラ哲学などの書物の知識を捨てて、様々な人の意見を聞きに行く旅に出ます。

※1『情念論』デカルト著・谷川多佳子訳、岩波書店、2008.1.16
※2この辺りは、『科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで』古川安、南窓社、1989.7.15を参考にしています。「宗教的エーストが科学活動を促した」側面も捉えていて、科学史で有りながら、「宗教的な中世」から「科学」による脱却みたいな二面性だけで捉えていないところが興味深い。
 因みに二面性で捉える上で興味深いのはニーチェの『アンチクリスト』。ルネサンスによりキリスト教が排除されつつあったものの、ルターの宗教改革により再びキリスト教の在り方が注目の的になってしまった、ような事を言っていたりもしている。
※3上記『科学の社会史』より
※4『マンガおはなし物理学史』小山慶太・原作、佐々木ケン・画、国宝社、2015.4.20
※5『デカルトの旅/デカルトの夢』

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