岡田准一主演の映画『関が原』を観てきました。

関が原の戦い自体をスポット当てた映画は、日本映画史上初めてだそうです。

意外にも徳川家康ではなく、適役の石田三成を中心にストーリーが展開していきます。
秀吉が作った秩序を、石田三成が正義と言う本質に変えて引き継ごうとする気概は格好良かったです。

徳川家康は役所広司さんが演じているのですが、家康の太っているお腹を入浴のシーンではCGを使って、再現しているのは面白かったです。

【1.「関が原の合戦」の本質】

さて、関が原の戦いは1600年に起こった天下の分かれ目と言う有名な合戦です。
家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍に分かれて合戦が行われるのですが、日本全国の天下を決める争いと言うこともあり、動員された勢力の規模は恐らく当時日本史上初めての大規模な合戦だったと思います。

しかし、規模はでかいものの合戦時間は6時間ほどと非常に短いのも特徴的です。

何故短かったのかというと、それは西と東と互いに連携が取れていて、関が原に一気に兵力を動員できたためだと思います。そのため、合戦自体は非常に短いのですが、特に東側の徳川家康はそれぞれの勢力への根回しを非常に時間をかけて、手間をかけて行っています。そして、その根回しを強化するために、諜報活動にも力をいれたことも特徴的です。

『関が原』では合戦自体も勿論ですが、徳川家康や石田三成がどのように根回しを行ったか、そして諜報活動のために伊賀の忍者を使ったところなどもリアルに再現されていて面白いです。

イラストは、映画のワンシーンの写真と手書きを合成して、文字を入れました。手書きは、Gペンを使ってみました。

【2.当時の日本とヨーロッパ史】

さてここからは、蛇足になるのですが、僕が関が原を見に行った理由は、今まで日本史は近現代が中心で、それ以前はあまり学んでこなかったのですが、最近あるきっかけによって1500年代の戦国時代の日本史に触れるきっかけをみつけたためです。

そのきっかけとは、フランシスコ・ザビエルでした。

《①フランシスコザビエルが日本に来るまでの世界史》

1400年後半には、美術史にとって有名なルネサンスの時代です。ミケランジェロは例外的に1564年まで生きているのですが、ダ・ヴィンチやラファエロは1500年代の前半でなくなっています。
そして、その1500年前半で有名な事件といいますと、ルターの宗教革命になります。ルターの宗教革命は、ドイツで起こった宗教革命ですが、ダ・ヴィンチなどを美術家のパトロンをつとめていたロレンツォ・デ・メディチの息子のレオ10世が財政確保のために発行し始めた免罪符が原因となっています。そして、ダ・ヴィンチがなくなったときに側にいて見届けたともされているフランス国王フランソワ1世もフランスにおいて、ルター派勢力と長期間争う事態になったりもしています(ユグノー戦争)。
そして、フランソワ1世のルター勢力の弾圧を始める少し前にパリで神学系の学校で学んでいたフランシスコ・ザビエルがいます。その学校の先輩に有名なカルバンもいたりします。しかし、フランソワ1世のルター勢力の弾圧が始まると、カルバンはフランスから亡命します。一方、ザビエルはカトリックにもっと貢献したいと思うようになり、イタリアのローマ教皇に会いに行きます。そこで、東洋にカトリックの勢力を布教する使命を与えられるのです。当時、インドを始めとする東洋方面に宣教師が派遣されていたのですが質が悪く、敬虔な正確なザビエルの活躍を見込んだらしいです。
ザビエルはポルトガルから東回りでインドのゴアを経由して、東洋に向かいます。ポルトガルから東洋方面にザビエル以前から宣教師などが渡航しているのでうが、日本へは中国と勘合貿易を行っていて特別な許可証が無くては、日本へは渡航できない状態だったためなかなかたどり着けず、ザビエルが日本につく1500年代半ばに勘合貿易が終わりようやく渡航できる可能性ができていたのです。そのながれも合って少し前の1543年に日本の種子島にポルトガル人が漂流し火縄銃を伝えています。そしてザビエルも鹿児島に渡航します。このとき、京都の都までザビエルは上京しているのですが、足利将軍の勢力が低下し、天下を治めるものが不在であり(戦国時代)、京都は荒廃していました。
しかし、ザビエルは日本にキリスト教の布教の布石として、宣教師の育成と定着を行い、このザビエルが残した(ザビエルは状況後、布石を残したことに満足しインドのゴアに戻っている)布石が発展し、日本の1582年少年遣欧使節団の派遣に繋がっていくのです。

《②ザビエルが日本に来て以降の日本史-織田信長とキリスト教》

ザビエル以後、織田信長が勢力を伸ばし日本の天下を治めます。信長は天下を阻む勢力の一つとして僧侶がいました。比叡山の焼き打ちなどが象徴的な事件です。そのため、僧侶の仏教に対抗する勢力として、キリスト教に興味を示したそうです。そして、信長が天下を治め始め、楽市楽座などの政治をとっていたときに、ザビエルの残したキリスト教の宣教師トレースが信長に謁見し、キリスト教の援助を受けます。その流れから、日本で結果を残せた実績として日本から少年の使節団をつれて帰国することによって、評価を得ようと目論んで宣教師トレースは帰国する際、少年遣欧使節団の構想を打ち立てたのです。トレースが少年を選んだ理由としては、ヨーロッパの良いところのみを少年たちに見せて、再び日本に返すことで、少年たちはヨーロッパ、特にキリスト教は良いものだと洗脳されたため、日本でいっそう布教活動すすめてくれると期待したようです。

《③少年遣欧使節団が渡航したヨーロッパ》

少年遣欧使節団がヨーロッパについたとき、歓迎した時の人・スペイン王フェリペ2世がいます。フェリペ2世はドイツでルター勢力を弾圧下ローマ皇帝カール5世の息子にあたります。実はザビエルが東洋に布教に派遣されたきっかを作ったのも、フェリペ2世も関係しています。
フェリペ2世は1856年にスペイン王に即位してから、スペインの無敵艦隊などで有名なように当時のヨーロッパで1番の勢力となります。しかし、1588年にはイギリスのエリザベス女王に無敵艦隊を破られてしまい、スペインの凋落の原因も作ってしまうという、スペインの絶頂期と凋落の両方を経験した人としても評価されています。
このイギリスのエリザベス女王がスペインの無敵艦隊を破った背景として、スペインはカトリック勢力であったものの、衛生国として支配していたオランダにおいてプロテスタントの勢力が強まり、フェリペ2世がオランダを鎮圧して完全に支配してしまうと、反カトリック勢力としてのイギリスにとって脅威となるためということがあります。
そして、少年遣欧使節団がスペインについたのは、オランダが反旗を翻し、スペインが押され気味になってフェリペ2世が不安成っていたときでした。フェリペ2世は、東洋においては布教が成功しているという実績を目の当たりにして、少年遣欧使節団と謁見し、非常に好意的に待遇したようです。因みに少年使節団はこの後、イタリアにも行くのですが当時のイタリアには有名なガリレオがこれから活躍しだそうとしだしていたときでした。

《④少年使節団の帰国と日本史-豊臣秀吉の天下統一》

少年使節団が帰国した1890年代は前半は豊臣秀吉が天下統一を果たした後でした。豊臣秀吉は、天下統一の反勢力ともなる可能性があるキリスト教の弾圧を行っていたのですが、意外にも少年遣欧使節団に対しては好意的に迎え入れています。

。。。と長文になってしまったのですが、このようにしてヨーロッパ史から日本の1500年代に触れるようになり、この時代の日本にも興味も持つようになったのです。

ですから、僕の中では日本史の近代以前も扱えるようになった一つの結果として映画『関が原』を見に行くという行為に繋がったのでした。

これからは、戦国時代・江戸時代も積極的に学習していきたいと思っています。

PS:更に蛇足なのですが、この後オランダから日本に漂着したウィリアム・アダムスがもたらした大砲が関が原の戦いのターニングポイントとなった小早川の裏切りに繋がるという説を読みました。ザビエルの系譜はカトリック勢力で、ウィリアム・アダムスはプロテスタント勢力であったというところでここで日本のカトリック勢力の反発も興味深くもあり、また当時の大砲の精度もしれる興味深い説でした。

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